うしろの間 第5話
雨が降り始めていた。
まだ小雨だったが、空気は一気に冷え、庭木がざわめいている。俺は石段の途中で振り返りかけ──はっとしてやめた。玄関は開け放したままだ。暗い家の中から何かが出てくる気配はない。だが見たら、本当にそこに立っていそうだった。
ポケットに塩なんか入っていない。役場の女は塩を撒けと言ったが、そんなものどこで用意すればいいのか。とにかく家から離れようと、俺は坂道を駆け下りた。片足の靴が途中で脱げそうになり、泥に足を取られながら、半ば転がるように坂を下る。背後から何か追ってくる気配はない。それでも何度も、首の後ろに視線を感じた。
町まで戻るころには、雨脚はかなり強くなっていた。
役場はすでに閉まっている時間だったが、庁舎の一室だけ灯りが点いていた。自動ドアの前でずぶ濡れのまま立ち尽くしていると、中から若い女が走ってきた。
「高槻さんですか」
電話の声の主だった。
三十代前半くらい、痩せた顔立ちの女で、肩までの髪を一つに結んでいる。役場の名札には三島 沙織とあった。彼女は俺の濡れた姿を見るなり顔色を変え、すぐに庁舎の中へ通した。
小さな会議室に案内され、タオルと紙コップの温かいお茶を渡される。冷房の効いた部屋に入って、ようやく自分がどれだけ震えていたか気づいた。手がうまく動かず、紙コップの縁がかたかた鳴る。
「……見たんですね」
三島が静かに言った。
「何を」
「家の中のものを」
「何なんですか、あれ」
俺の声は、自分でも驚くほど荒れていた。
「人、じゃないですよね。あんなの」
「ええ」
「じゃあ何なんです」
「私にも、はっきりとは」
ふざけるな、と怒鳴りたくなった。だが三島の顔には、言い逃れやごまかしの色がない。単純に、彼女自身も全容を知らないのだとわかった。
「少なくとも、あの家に昔からいる“何か”です。高槻家に関わるものです」
三島は一度ドアのほうを見て、廊下に誰もいないのを確かめると、声を落とした。
「ここではあまり大きな声で話せません。町の人も、皆が皆、同じことを知っているわけじゃないので」
「いや、そんな言い方されても困るんですけど。俺、何も聞かされてないんですよ。祖母の葬儀のために来ただけで」
「わかっています。でも、本当ならあなたを呼ぶべきじゃなかった」
「……は?」
「おばあさまが亡くなった時点で、家はすぐ閉じるべきだったんです。誰も入れず、宮司を呼んで、古い手順に従って」
「じゃあ何でそうしなかったんです」
「高槻さんのご家族の承諾が必要だったからです」
三島は申し訳なさそうに目を伏せた。
「それに、私は半信半疑だった。昔話の類だと思っていたんです。高槻さんのおばあさまが時々おかしなことを言うのも、年齢のせいだろうと……。でも、亡くなる一週間ほど前から様子が変わりました。役場に何度も電話してきて、同じことを繰り返すんです。“もう持たん”“戸が鳴く”“あの子が来る前に閉めないといけない”って」
「あの子?」
「あなたのことだと思います」
ぞくりとした。
「どうして俺が」
「わかりません。ただ、おばあさまはずっと“孫には知らせるな”と言っていました。なのに最後の三日だけ、逆のことを言ったんです。“正樹が来たら、帳面を読ませて、二階の戸を見せろ”って」
帳面。あのノートのことだろう。
「何が書いてあるか、知ってるんですか」
「少しだけ。前にも見せられたことがあります。全部は読ませてもらえませんでしたけど」
三島は机の上に両手を置き、ゆっくり息を吐いた。
「高槻家は、昔この町で“留め役”をしていたそうです」
「留め役」
「死んだものを、外へ出る前に一晩だけ留める役目。事故死や水死、身元のわからない死体、あるいは死に方のよくない人間……そういうものを、そのまま家に置くと、災いが外へ漏れると信じられていた時代があったそうです。だから一度、高槻家の奥の部屋に移して、夜明けまで封じる。朝になったら、正式に弔って外へ出す」
「それが“うしろの間”」
「ええ。少なくとも言い伝えでは」
あまりにも時代錯誤な話だった。だが、ついさっき見たものを思い出すと、一笑に付す気にはなれない。
「その留め役ってのは、祖母の代まで続いてたんですか」
「いいえ。少なくとも表向きには、戦後すぐに途絶えたことになっています。火葬場も整備されて、そういう風習は必要なくなったから、と」
「表向きには?」
「まぜの丘町では、昔から海の事故が多かったんです。台風のたびに人が流される。崖から落ちる。山でも死ぬ。遺体がきれいに戻ってくるとは限らない。昔の人は、そういう“帰り方の悪い死者”をひどく恐れていました」
三島はそこで少し躊躇ったあと、続けた。
「高槻家の“うしろの間”に一晩置いた死体は、翌朝には穏やかな顔になる。そういう言い伝えが残っています」
「……それ、本気で言ってるんですか」
「本気です。少なくとも、そう信じていた人間がこの町にいた。今もいる」
雨が窓を叩く音が強くなる。会議室の蛍光灯が、かすかに唸っていた。
「じゃあ、さっき俺が見た女は何なんです」
「わかりません。でも、おそらく一人ではありません」
「一人じゃない?」
「高槻家には、昔から“入ったまま出ていないものがいる”って言われているんです」
言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
「……死体が?」
「死体、だったものかもしれないし、別の何かかもしれません」
三島はそこで口を閉ざした。これ以上言いたくないのか、あるいは本当に知らないのか判別できない。
「明日、家に行きます」
彼女は言った。
「私一人じゃなく、もう一人、事情を知っている人を連れていきます。高槻さんも一緒に来てください」
「は? 嫌ですよ、もう二度とあんな家」
「それでもです。おばあさまが残したものを確認しないといけない。たぶん、あなたにしか開けられないものがある」
嫌な予感しかしない。
「どういう意味です」
「高槻家の帳面には、“血筋の者が戸を選ぶ”と書かれていました」
「戸を選ぶ?」
「家の中には、開けていい戸と、開けてはいけない戸があるそうです」
俺は頭を抱えたくなった。まるで怪談の寄せ集めだ。だが、怪談ならまだましだった。怪談は読んでいる間だけ怖くて、本を閉じれば終わる。さっきの女は違う。あれは俺の肩に触れた。息がかかった。目の前に立っていた。
「今日は町の宿を取ります」
三島が言った。
「役場の経費で押さえますから、そこで休んでください。なるべく一人にならないほうがいい」
「……俺、今夜帰れませんか」
「最終はもうありませんし、この雨だと車も危ないです。明日の朝まで待ったほうがいいと思います」
俺は反論しかけて、やめた。確かにこの天気で山道を抜ける気力はなかったし、なにより今の俺は、正常な判断ができる状態じゃなかった。
三島は会議室を出ると、役場近くの小さな旅館へ案内してくれた。二階建ての古びた建物で、外観は昭和のまま時間が止まったみたいだったが、部屋は清潔だった。女将に事情を軽く説明していたらしく、チェックインはすぐに済んだ。
「何かあったら、夜でも電話してください」
旅館の玄関で三島はそう言って、自分の携帯番号を書いたメモを渡した。
「窓やドアの鍵は全部閉めてください。知らない人が来ても開けないこと。もし──」
「もし?」
「もし、おばあさまの声が聞こえても、返事しないでください」
その言葉だけ残して、三島は雨の中へ戻っていった。
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