うしろの間 第6話
部屋に入ると、畳の匂いと古いエアコンの風に、少しだけ人心地ついた。八畳ほどの和室。壁際にテレビ、小さな冷蔵庫、座卓。窓の外には町の灯りがぼんやり見える。祖母の家と違って、ここはちゃんと人が暮らしている空気があった。
濡れた服を着替え、風呂を借り、部屋に戻るころには夜の九時を過ぎていた。コンビニで買ったおにぎりを二つ食べたが、味がしない。テレビを点けても内容が頭に入らず、結局すぐ消した。
静かだった。
雨音だけがずっと続いている。
座卓の上には、祖母の部屋から持ち出してしまった六月九日のノートがある。無意識に鞄へ突っ込んでいたらしい。返すべきだと思ったが、今さらあの家へ戻る気にはなれなかった。
ページを開く。
もう一つの階段を思い出した
その一文の下に、昼間は気づかなかった薄い書き込みがあった。筆圧が弱く、ほとんど紙の凹みでしか読めない。
鏡のうしろ
仏間の鏡台をどける
下りた先で名前を呼ばれても返事をしない
四つ数えたら目を閉じる
五つ目を見たらだめ
意味がわからない。鏡の後ろ? 仏間の鏡台の裏に階段があるのか。そんな隠し通路みたいなもの、今どきの家にあるはずがない。いや、あの家ならあってもおかしくない気がしてくるから嫌だった。
ノートをめくる。
後ろのページには、別の日付のメモが挟まっていた。大学ノートから破ったらしい一枚で、祖母の字ではなく、もっと古い、墨で書いたような癖の強い文字が並んでいる。
留める数は四つまで
五つ目は戸ではない
五つ目は家のふりをする
その下に、赤いボールペンで祖母が書き足していた。
正樹へ
もし読むなら、母さんを責めるな
あの子は見たから逃げた
おまえはまだ見ていない
俺は紙を握りしめた。
母が見た?
何を。
どうしてそれを今まで黙っていた。
腹の底から、じわじわと怒りが湧いてきた。怖さと同じくらい、いやそれ以上に、家族だけが知っていた何かを自分だけ知らされていなかったことが腹立たしかった。母は俺に「二階へ行くな」と言った。なら最初から、何があるのか話すべきだったんじゃないのか。
すぐに電話をかけようとしたが、時刻を見てやめた。どうせ今問い詰めても、はぐらかされるだけだ。
布団を敷き、部屋の明かりを消す。
だが眠れるはずもなかった。天井の木目を見つめながら、祖母の家の間取りを思い出そうとする。長い廊下、急な階段、仏間、客間、祖母の部屋。そこに「もう一つの階段」があるという。鏡台の裏。仏間のどこか。
家の図面にはない部屋。
うしろの間。
高槻家に入ったまま出ていないもの。
どれも冗談みたいな単語なのに、今日の俺には現実の重さでのしかかってきた。
うとうとしかけたのは、たぶん深夜一時を過ぎたころだった。
携帯のバイブ音で目が覚めた。
枕元のスマホを見る。非通知。こんな時間に、と思いながらも出てしまったのは、今日一日で感覚が麻痺していたからだろう。
「……もしもし」
返事はない。
代わりに、ざああ……という強い雑音が聞こえる。波の音にも、雨の音にも似ていた。電波の悪い通話みたいなノイズの向こうで、誰かが息をしている。
「誰ですか」
『正樹』
祖母の声だった。
全身が強張る。
『旅館を出なさい』
「……は?」
『そこは家より先に見つかる』
意味がわからない。というか、これは本当に祖母なのか。祖母は死んだはずだ。俺は何も答えられず、受話器──いやスマホを耳に押し当てたまま固まった。
『窓の外を見るな』
『廊下に出るな』
『押し入れが鳴っても開けるな』
そこで通話が切れた。
ぶつ、と唐突に。
俺はしばらく動けなかった。スマホの画面には「非通知」の文字だけが残っている。時刻は一時二十七分。通話時間は四十六秒。
冗談じゃない。
思わず部屋の明かりを点けた。旅館の和室は何も変わっていない。座卓、テレビ、押し入れ、濡れた傘。窓の外は雨。もちろん、祖母がいるはずもない。
だが、心臓の音がうるさい。
窓の外を見るな、と言われた瞬間から、逆に気になって仕方がなくなった。カーテンはない。障子だけだ。向こうに何があるのか、見れば確かめられる。見なければ、何がいるのか想像するしかない。
そのとき、廊下でみしっと床が鳴った。
この部屋の前だ。
誰かが歩いている。
旅館の宿泊客かもしれない。トイレに起きた誰か。女将。そう自分に言い聞かせるが、足音は妙だった。普通の人間の歩幅じゃない。二歩進んで、止まる。しばらくして、また一歩。裸足で、慎重に重心をかけるような、湿った足音。
ぺたり。
……。
ぺたり。
部屋の前で止まった。
俺は息を殺した。視線が自然と押し入れへ向く。祖母の言葉が頭の中で反響する。
押し入れが鳴っても開けるな
次の瞬間、部屋の窓が、外からこん、こんと叩かれた。
心臓が跳ね上がった。
二階だぞ、ここ。
旅館の二階の窓を、外から叩ける人間なんかいるはずがない。
こん。こん。こん。
一定の間隔で、窓を叩く音が続く。障子の向こうに、ぼんやり影が映った。細長い人影だ。首が不自然に長い。雨に濡れた髪が、障子に張りついているように見える。
同時に、押し入れの中で、こつんと何かが鳴った。
俺は凍りついた。
窓の外と、押し入れの中。どちらにも何かいる。
廊下の足音はもうしない。部屋の前でじっと立ち止まり、中の様子を窺っているような気配だけがある。
こん。こん。こん。
窓を叩く音が少しずつ速くなる。
こつん。こつん。
押し入れの中の音も返事をするみたいに増える。
頭がおかしくなりそうだった。三島に電話しようかとスマホを掴んだ瞬間、画面が勝手に点灯した。通話アプリではなく、カメラが起動している。インカメラ。真っ黒な画面の中央に、俺の青ざめた顔が映った。
その肩越しに、背後の押し入れが見える。
襖の隙間から、白い指が一本だけ覗いていた。
俺は悲鳴を飲み込み、反射的にスマホを落とした。畳に当たって画面が伏せる。窓を叩く音がぴたりと止んだ。
次に鳴ったのは、部屋の中だった。
俺のすぐ後ろ、枕元のほうから、祖母の声がした。
「五つ目を開けたらいかんよ」
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