うしろの間 第7話
「五つ目を開けたらいかんよ」
祖母の声は、ひどく近かった。
首の後ろ、というより、もう肩越しに囁かれたみたいな距離だった。息はかからない。だが声の湿り気だけが、耳の穴から頭の奥へじわりと染みこんでくる。
俺は振り返れなかった。
窓の外の気配も、押し入れの隙間から覗いていた白い指も、全部そのままに、布団の上で背中を丸めて固まっていた。肩が勝手に震える。喉の奥が引き攣って、息を吸うたびに変な音が鳴る。
「……ばあ、ちゃん?」
ようやく出た声は、自分でも情けなくなるほど掠れていた。
返事はない。
代わりに、押し入れの中でこつんと音がした。木の箱か、固い骨みたいなものが板に当たる音だ。さっきまで一定だったリズムが崩れ、今度はこつ、こつ、こつと三回続く。中の何かが、こちらの反応を窺っているみたいだった。
窓の外の影は動かない。障子越しに、細長い首と濡れた髪の輪郭だけがぼんやり見えている。二階の窓の外に立てるわけがない。人間なら。
だが今日一日で、俺はもう「人間なら」という前提を捨てるしかなくなっていた。
「……どうすればいい」
誰に向けたのかわからない問いだった。
すると、今度は祖母の声ではなく、女の声が返ってきた。
押し入れの中からだ。
「いれて」
ひどく小さい声だった。子供の声にも、若い女の声にも聞こえる。喉の奥に水が詰まったような、ぐずついた発音。
「さむい」
「いれて」
「ここ、せまい」
ぞっとした。
押し入れの中に、誰かがいる。
そんなはずはない。旅館の押し入れだ。せいぜい布団が入っているだけのはずだし、さっき風呂から戻ったときにも特に気になる様子はなかった。けれど、あの隙間から覗いていた白い指を思い出すと、笑い飛ばせない。
女の声は続いた。
「ひらいて」
「ひとりにしないで」
「ねえ」
「たかつきのくせに」
最後の一言だけ、妙に低く、粘ついて聞こえた。
玄関の女と同じだ。
俺は布団の上を後ずさり、壁際まで逃げた。部屋の構造が頭に入ってこない。窓、押し入れ、出入口。どこが一番安全なのか判断がつかない。いや、そもそも安全な場所なんかあるのか。
スマホは畳の上に落ちたまま、画面を伏せている。三島に電話を──と思ったが、布団から手を伸ばした瞬間、押し入れの襖が内側からみしっと鳴った。
開きかけたのだ。
ほんの一センチほど、隙間が広がる。暗い中から、今度は指ではなく、白い爪の並んだ手の甲が覗いた。関節が妙に多い。人間の手に見えて、どこか数が合わない。指が六本あるようにも見えるし、節が一つ多いようにも見える。
俺は反射的に立ち上がった。
その拍子に、足が座卓の脚へぶつかり、上に置いていたノートが床へ落ちる。ページがばさりと開いた。六月九日のノート。祖母が狂ったように書き殴っていた、あの大学ノートだ。
開いたページに、太い字が踊っていた。
声に返すな
戸が鳴いたら数を数えろ
四つまでは家のもの
五つ目は外から来る
まるで今この状況に対する説明みたいで、背筋が凍った。
戸が鳴いたら数を数えろ。
押し入れの襖は、今までに何回鳴った?
俺は必死で思い返した。最初のこつんが一回。そのあと三回続いた。さっき襖がみしっと鳴ったのは、あれを一回と数えるべきか。わからない。頭がうまく回らない。
そのとき、窓がこんと鳴った。
一回。
押し入れの中で、こつん。
二回。
部屋の入口のほうで、誰かが爪を立てるようにかりっと引っ掻いた。
三回。
押し入れが、みしっ。
四回。
息が止まりそうになる。
次が五つ目だ。
祖母のノートには「四つまでは家のもの」「五つ目は外から来る」とある。家のものが安全だとはまったく思えないが、それでも“外から来るもの”よりはまだましだということなのか。五つ目が鳴る前に、何かしないといけない。
何を?
答えは、部屋の中にはなかった。
代わりに、枕元から祖母の声がした。
「塩」
短く、それだけ。
俺は弾かれたようにテーブルの上を見た。夕食と一緒にもらった、コンビニのカップ味噌汁の小袋がある。その横に、弁当用の塩の小袋が一つだけ転がっていた。唐揚げか何かについてきたものだ。いつ置いたのか記憶にない。だが今はそれが救命具に見えた。
手を伸ばす。
その瞬間、部屋の入口がどんと大きく鳴った。
五つ目だ。
襖でも窓でもない。明らかに、人の手で叩いたような重い音。部屋の空気が一瞬で変わった。冷たくなるんじゃない。逆だ。蒸し風呂みたいな熱気が、廊下側から流れ込んでくる。生臭い。潮と、濡れた土と、古い血が混ざったような匂いだ。
俺は塩の小袋を掴み、震える手で破った。半分以上を押し入れの前へぶちまける。残りを窓の敷居へ、そして部屋の入口へ。やり方が合っているかなんてわからない。わからないが、祖母が最後に残した声に従うしかなかった。
床に散った白い塩が、じわりと濡れた。
水ではない。
暗いし距離もあるのに、それが水じゃないとわかった。塩の上へ、廊下のほうから黒っぽい液がじわじわ広がってきている。細い線になって畳の縁を這い、入口の前で止まる。血に見えたが、匂いは潮だった。
部屋の前で、何かが息をしている。
荒く、低く、喉の奥で泡立つような呼吸。人間が病気で肺に水を溜めたときみたいな、濡れた呼吸音だ。足音はしない。立っているのか、這っているのかもわからない。ただ、その“何か”が部屋に入ろうとして、塩の線の前で足止めを食っているのだけは感じた。
押し入れの中の女が、甲高い声で笑った。
「ほら」
「きた」
「ほら、きたよ」
「おまえを迎えに」
窓の外の影が、障子にぴたりと顔を押し当てた。鼻筋も、口も見えない。ただ髪の隙間から、真ん丸い目が一つだけ浮かんでいるのがわかった。もう片方の目がある位置は、黒く窪んでいた。
俺は座卓を蹴飛ばし、その陰へしゃがみ込んだ。情けないが、それしかできなかった。両耳を塞ぎ、目を閉じる。塩を撒いたくらいでどうにかなるなら、祖母だってもっと楽に生きられたはずだ。なのに、今の俺にはそれに縋るしかない。
部屋の外で、どん、どんと扉が鳴る。
押し入れの中からは、爪で板を掻く音。
窓の外では、何かが障子を舐めるような、じゅる、と湿った音。
その全部のあいだに、祖母の声だけが途切れ途切れに聞こえた。
「四つまで……」
「四つまで……家のもの……」
「朝まで、数えろ……」
どれくらいそうしていただろう。
体感では一時間にも思えたし、五分にも思えた。音はしばらく続き、やがて少しずつ遠のいていった。最初に窓の気配が消え、次に押し入れの中の女がすすり泣きに変わり、それもいつの間にか止んだ。最後まで残ったのは、廊下の前の濡れた呼吸だけだったが、それも雨音に紛れるように消えた。
気づけば、外が少し白んでいた。
俺はそのまま朝まで眠れなかった。
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