うしろの間 第8話
朝七時すぎ、旅館の女将が恐る恐る部屋をノックしてきたとき、俺はまだ座卓の陰に座り込んでいた。鍵を開けると、女将は俺の顔を見るなりぎょっとした。
「だ、大丈夫ですか。ひどい顔色ですよ」
「……夜、誰か来ませんでしたか。この部屋」
「いいえ?」
女将は怪訝そうに首を傾げる。
「夜は雨も強かったですし、他のお客さんも皆さんお部屋でしたよ」
部屋の入口を見る。塩はまだ床に散っている。黒い液体の跡は消えていた。押し入れの襖も閉まったまま、隙間ひとつない。窓の障子には、外から顔を押し当てた痕跡も見当たらない。
夢だった、と言われればそうかもしれない。
だが、押し入れの前に散らばった塩だけが、それを否定していた。
女将に適当に「寝ぼけてこぼした」と誤魔化し、顔を洗って下へ降りると、旅館のロビーに三島が来ていた。昨夜と同じグレーのスーツ姿だが、ほとんど寝ていないのか目の下にうっすら隈がある。その隣に、見慣れない老人が座っていた。
七十代半ばくらいだろうか。背は低いが骨格がしっかりしていて、痩せているのに妙な圧がある。白髪を短く刈り込み、古い紺の作務衣を着ていた。膝の上には風呂敷包みと、細長い木箱。顔には深い皺が刻まれているが、目だけが妙に若い。油断なく人を観察する目だった。
三島が立ち上がる。
「おはようございます。眠れましたか」
「見りゃわかるでしょ」
我ながら刺々しい返しだったが、三島は気にした様子もなかった。
「この方が、今朝お話しした“もう一人”です。宮司ではないけど、宮司より詳しい人だと思ってください」
「雑な紹介やな」
老人が鼻を鳴らした。
「松浦 文蔵や。あんたんとこの家を、昔よう知っとる」
「松浦……」
昨日、駅から家まで送ってくれた男も松浦と呼ばれていた。顔立ちが少し似ている。親子かもしれない。
「息子がお前さんを家まで運んだ。あれは松浦和志。わしはその親父や」
やっぱりか。
文蔵はじろじろと俺の顔を見たあと、ふっと眉を寄せた。
「こりゃ一晩で触られとるな」
「触られ……?」
「首の後ろ、鏡見てみ。指の跡がついとる」
思わず首に手をやる。自分ではわからなかったが、たしかに触れると少し熱を持っている気がした。
三島が低い声で言う。
「旅館でも、何かありましたか」
「ありましたよ。祖母から電話が来て、押し入れから声がして、窓の外に女が立ってて、部屋の前には別の何かが来た。塩撒いたら朝まで消えなかった」
「……やっぱり追ってきたか」
文蔵は嫌そうに吐き捨てた。
「家から出たから終わりやない。高槻の血ぃを嗅いだら、向こうは場所を変えても寄ってくる」
「向こうって何なんですか」
「一言で言えば、置いてかれたもんや」
また曖昧な答えだ。苛立ちが込み上げる。
「それじゃ何もわからない。俺だけ何も知らされてないんですよ。母も、祖母も、あんたらも、みんな半端なことしか言わない。高槻家が何をしてたのか、あの家に何がいるのか、ちゃんと教えてください」
ロビーに、少し重い沈黙が落ちた。
三島は旅館の女将に会釈し、俺たちを奥の小さな食堂へ移した。朝食前の時間帯で、他に客はいない。窓の外では、昨夜の雨が嘘みたいに上がり、町の向こうに低い雲が垂れ込めている。
文蔵は座るなり、風呂敷包みを机に置いた。中から出てきたのは、分厚い和綴じの帳面だった。表紙は虫食いだらけで、角が丸く擦り切れている。墨で書かれた題字はほとんど読めないが、かろうじて「留帳」と見えた。
「高槻家の古い控えや。正確には写しやけどな。本物は家の中にあるはずやった」
文蔵は帳面を開いた。紙は茶色く変色し、ところどころ水染みがある。達筆すぎて読みづらいが、文蔵は慣れた様子で頁を繰った。
「高槻の家は、昔この辺りで**“留め”**をしよった。三島から聞いたやろ」
「死体を一晩置くってやつですよね」
「死体だけやない。正確には、死にきれんかったもんを一晩だけ家に留めるんや」
言い回しが引っかかった。
「死にきれんかった?」
「死んだ瞬間に、ちゃんと向こうへ行けるもんばっかりやない。事故、溺死、首吊り、行き倒れ、疫病、腹を裂かれた女、子を抱いたまま海へ飛び込んだ母親──そういう死に方をしたもんは、昔は“戻りやすい”と恐れられた。帰る場所を間違えるんや」
文蔵は指先で帳面の一文をなぞった。
「高槻の家は、それを一晩だけ預かる。家の奥にある“うしろの間”へ通して、夜明けまで戸を閉める。すると朝には、暴れとったもんが静かになる。泣いとったもんが泣きやむ。そうやって外へ出せるようになる」
「……そんなの、ただの迷信じゃ」
「そうやと思うなら、昨夜見たもんを説明してみい」
返す言葉がなかった。
文蔵は続ける。
「せやけど、何でも入れてええわけやなかった。留められる数は四つまで。高槻の家には昔から、四つの“戸”があると言われとる」
「戸?」
「部屋の戸やない。境目や。向こうとこっちを繋ぐ口。高槻の家はそれを四つまで持てる。せやから四つまでは“家のもの”として留められる。ところが、五つ目ができると話が変わる」
文蔵はそこで、昨夜のノートとまったく同じ言葉を口にした。
「五つ目は戸ではない。家のふりをする。」
背中が冷えた。
「どういう意味です」
「家に見せかけて、家の中へ入ってくるもんがあるっちゅうことや。戸の形を真似て、声を真似て、家族の顔を真似てな。せやから高槻の家では、昔から“数を間違えるな”と教える。四つまでは家の中の異常、五つ目からは外から来たもんや」
「……昨夜、祖母のノートにも同じことが書いてありました」
三島が小さく息を呑む。文蔵は眉を上げた。
「ノートを持っとるんか」
「はい」
鞄から六月九日のノートと、挟まっていた紙片を出す。文蔵は紙を受け取り、祖母の赤い書き込みを読んだ。母さんを責めるな。あの子は見たから逃げた。おまえはまだ見ていない。 そこを読むときだけ、老人の目つきが少し変わった。
「ふむ」
「“母さんは見た”って、どういうことですか」
文蔵はすぐには答えなかった。代わりに帳面の別の頁を開き、古い写真を一枚挟んだところで止める。
白黒写真だった。
写っているのは、若い女と、その隣に立つ少女。女は和服姿で、痩せているが目鼻立ちが祖母に似ている。祖母の若いころだろう。問題は隣の少女だった。十歳か十一歳くらい。無表情で、髪を肩で切りそろえている。どこか見覚えがあると思って、数秒後に気づいた。
母だ。
小学生くらいの母が、祖母の隣に立っている。
だが、写真の背景が異様だった。
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