うしろの間 第9話
家の中だ。おそらく高槻家の仏間。なのに、母の背後の襖が半分開いていて、その向こうに真っ暗な空間が口を開けている。夜の闇とは違う。光を吸っているみたいな黒さだ。しかも、その暗闇の奥に、人の顔らしきものが幾つも浮かんでいる。
俺は思わず写真を机に置いた。
「何これ」
「今のお母さんが十のときの写真や」
「だから、後ろは何なんです」
「その年に、お前さんの母親はうしろの間を見つけた」
文蔵の声は、乾いていた。
「見つけた、というより、向こうに見つけられたんやろな。家の中で遊んどるうちに、仏間の鏡台の後ろを開けてしもうた。そこに“もう一つの階段”があった」
「……鏡のうしろ」
祖母のノートの一文が頭をよぎる。
「下りたんですか、母は」
「一段だけ、な。そしたら下から自分の名前を呼ばれた。振り向いたら、階段の上におった祖母──つまりお前さんのばあさんが、娘の後ろにもう一人の娘を見た」
ぞわりと鳥肌が立つ。
「もう一人?」
「お母さんと同じ顔、同じ背丈、同じ声のもんや。ただし、片方は階段を下りていて、もう片方はすでに下から上がってきとった」
食堂の空気が、急に冷えた気がした。
「高槻の家では、それを“迎え子”と呼ぶ」
文蔵が言った。
「五つ目が、最初に取る形や」
俺は写真をもう一度見た。幼い母の背後に開いた黒い隙間。その奥の顔の群れ。どれが“迎え子”なのかわからない。ただ、写真の中の母は、真正面を向いているのに、どこかひどく怯えた目をしていた。
「母は、どうなったんです」
「何とか引き戻された。ばあさんが髪を掴んで階段から引っこ抜いたそうや。その晩、高槻の家では戸が五つ鳴いた。翌朝、お母さんは高熱を出して三日寝込んだ。それから二度と、あの家の話をせんようになった」
「……それで、東京へ?」
「せや。高校出てすぐ町を出た。二度と戻らんつもりやったんやろ」
腑に落ちた気がした。母が祖母の話を避けていた理由。実家に触れたがらなかった理由。あの電話で、二階へ行くなとだけ言って詳しく話さなかった理由。
だが、それで納得できるかといえば別だ。
「じゃあ、なんで俺なんです」
気づけば、声が強くなっていた。
「母が逃げたなら、そこで終わりじゃないのか。祖母が死んで、なんで俺が呼ばれるんです。俺は何もしてない。高槻の家なんて、子供のころに二回行っただけだ」
文蔵は帳面を閉じた。
「終わっとらんからや」
その一言が、妙に重く落ちた。
「お前さんのばあさんは、ずっと一人で戸を押さえとった。せやけど年を取った。力も弱った。たぶん最後の数年は、四つを四つのまま保てんかったんやろ。隙間ができた。そこに、お前さんが近づいた」
「近づいたって」
「血の近いもんが家を忘れると、向こうは逆によう見つける。離れた子ほど呼び戻されることがある。とくに、お前さんみたいにまだ“見ていない”側の子はな」
まだ見ていない。
祖母の書き置きと同じ言葉だ。
「何を見ていないんです」
「それを確かめに、今日家へ戻る」
文蔵はそう言って立ち上がった。
「お前さんのばあさんは、最後に“二階の戸を見せろ”と言うたんやろ。なら、家の中にまだ残しとるもんがある。たぶん帳面の本物か、鍵か、あるいは──」
そこで老人は言葉を切り、俺の首の後ろをじっと見た。
「お前さんに渡すつもりやった“役目”そのものかもしれん」
嫌な沈黙が落ちた。
三島が気遣うように口を開く。
「もちろん、無理にとは言いません。でも、昨日の時点で家のものはもうあなたを認識しています。旅館まで追ってきた以上、このまま町を出ても終わらない可能性がある」
「脅してます?」
「脅しじゃなくて、たぶん事実です」
文蔵が木箱を抱え直す。
「今日は昼のうちに入る。日が高いほうがまだましや。二階と仏間を先に見る。鏡台の後ろに階段があるなら塞ぐ。帳面があれば持ち出す。できるなら、今夜のうちに留めを切る」
「留めを切る?」
「高槻の家が“家”として機能しとる状態を終わらせるんや。うしろの間を閉じる、言うてもええ」
それができるなら、祖母はどうして生前にやらなかったんだ。そう訊こうとしたが、文蔵の表情を見てやめた。できなかったのだろう。あるいは、一人では。
「もし失敗したら」
自分でも嫌になるほど小さな声で、俺は訊いた。
文蔵は少しだけ考え、あっさり答えた。
「お前さんは、家に残る側になる」
ぞっとするような言い方だった。脅しではなく、単なる事実として告げているのがわかる。
三島が立ち上がる。
「車を回してあります。十時には家へ着けると思います」
「……今からですか」
「先延ばしにしても良くならないので」
たしかにそうだ。逃げたい気持ちは山ほどある。今すぐ駅へ向かって、何でもいいから町の外へ出たい。だが昨夜、旅館の二階の窓を叩いた“何か”を思い出すと、それで終わる気がしなかった。
俺は深く息を吐き、鞄を持った。
「……行きます」
「よし」
文蔵はそれだけ言って、木箱の蓋を少し開けた。中には、古びた短刀のようなものと、小さな鏡、麻縄、塩の包み、折り畳んだ白い紙札が詰まっていた。神主の道具とも違うし、民間のまじない道具にも見える。どれも長く使い込まれて、色が鈍く沈んでいた。
「ひとつだけ覚えとけ」
食堂を出る前に、文蔵が言った。
「今日、家の中でお前さんと同じ顔のもんを見ても、話しかけるな。返事もするな。近づいてきたら目を閉じろ」
「……そんなものが出るんですか」
「出るかもしれん、や。まだ“見てない”ならな」
外へ出ると、昨夜の雨で町じゅうが洗われたみたいに濡れていた。空は曇ったままだが、海のほうだけ少し明るい。役場の軽ワゴンに乗り込む。運転は三島、助手席に文蔵、俺は後部座席だ。
町を抜け、海沿いの道を外れ、山側へ入る。
祖母の家へ近づくにつれ、腹の底が重くなっていった。あの家は待っている。そんな気がした。昨夜、俺が逃げたことを知ったうえで、今度はちゃんと迎え入れる準備をしているような、嫌な確信がある。
坂道の手前で、車が止まった。
「ここから先は歩く」
文蔵が言う。
「車はあまり近づけんほうがええ」
エンジンを切った瞬間、周囲の静けさが戻ってきた。鳥の声も、蝉の声もない。ただ濡れた木々の匂いと、遠くの海鳴りだけがある。
坂の上に、高槻家の屋根が見えた。
昨日と変わらず、黒ずんだ瓦が湿った光を吸い込んでいる。だが、ひとつだけ違うものがあった。
二階の、いちばん奥の窓。
昨日は閉まっていたはずのそこが、今はわずかに開いていた。
黒い隙間の中に、誰かが立っている。
距離があるのに、それが俺自身だとわかった。
同じ背格好、同じ髪型、同じ服。二階の窓の奥から、俺がこっちを見下ろしている。
しかも、口元だけがゆっくり笑っていた。
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