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ホラー短編集  作者: 倉木元貴


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うしろの間 第10話

 二階の窓に立っていた“俺”は、車を降りた瞬間にはもういなくなっていた。


 見間違いだった、と言い切れればどれだけ楽だったか。だが、あの距離でもはっきりわかった。顔の輪郭も、肩の落ち方も、昨夜から着っぱなしの黒いパーカーまで、全部同じだった。あれがただの人影や錯覚で済むなら、昨日の女も、旅館の窓を叩いた影も、全部そうだったことになる。


 そんな都合のいい世界には、もう戻れない。


「見たか」


 助手席から降りた文蔵が言った。


 俺は答えずに家を見上げた。雨上がりの湿った空気の中で、祖母の家は昨日よりさらに古く、暗く見える。瓦の隙間に草が生え、外壁の漆喰はところどころ剥がれ、軒先の影が黒く沈んでいる。窓ガラスは鈍く曇っていて、どの部屋も中が見えない。家というより、地面から半分だけ掘り起こされた大きな棺みたいだった。


「二階に、俺がいました」


「おるやろな」


 文蔵はあっさり言った。

「迎え子は、まず家主の顔を真似る。次に、入ってくるもんの顔を真似る。誰を出迎えるか、よう知っとるからな」


「そんな平然と言わないでくださいよ……」


 三島が軽ワゴンの後ろから荷物を下ろす。折り畳み式の脚立、小さな工具箱、懐中電灯、ポリ袋に入った塩の袋、そして文蔵の木箱。役場職員にしては場違いな装備だ。


「高槻さん、これ」


 三島が差し出してきたのは、小さな白い布袋だった。


「中に塩と、文蔵さんに作ってもらった紙札が入ってます。首から下げてください」


「効くんですか、こういうの」


「効かないよりはましや」


 答えたのは文蔵だ。


「効く効かんは、家の中で何を見ても口走らんことのほうがでかい。札はお守りやなく、お前さんが自分を忘れんための印やと思え」


 言われた通り、布袋を首にかける。薄いのに、妙に重く感じた。


 坂を上るあいだ、誰もほとんど喋らなかった。靴の裏で濡れた砂利が鳴る音だけが、やけに大きい。門柱の前まで来ると、文蔵が立ち止まり、木箱から塩をひとつまみ取って地面へ撒いた。何か小さく唱えたが、聞き取れない。塩は湿った土の上に白く散り、すぐに色を失った。


「昨日、玄関は開けっぱなしで逃げたんですよね」


 三島が小声で確認する。


「はい」


「なら、中の空気が動いてるかもしれない」


 空気が動く、という表現にぞっとする。文蔵は玄関を見上げ、眉間に皺を寄せた。


「……開いとるな」


 言われて初めて気づいた。昨日、俺が飛び出した玄関の引き戸は、たしかに半分ほど開いたままだった。だが、昨日よりも開き方が違う。片側だけが微妙に持ち上がり、何かに引っかかっているように歪んでいる。家が口を半開きにしているみたいだった。


 玄関前の石段に立つと、ひやりとした風が足元を撫でた。夏の朝なのに、床下から冷蔵庫のような冷気が漏れてくる。


「入る前に決めとく」


 文蔵が低い声で言う。


「今日は三つだけやる。仏間の鏡台をどける。二階の奥を確認する。帳面か鍵を持ち出す。 それ以上は欲張らん。もし途中で五つ目が鳴いたら、家を出る。ええな」


「五つ目が鳴いたら、って……」


「音だけやない。気配でもええ。数え方を間違えたら終わる。お前さんも数えろ」


「俺が?」


「昨日、家の中で見られたんや。向こうはお前さんに合わせてくる。わしらより先に気づくことがある」


 冗談じゃない。そう言いたかったが、文蔵の顔を見て飲み込んだ。たぶん本気でそうなのだ。


 文蔵が玄関の引き戸へ手をかける。ぎ、と鈍い音を立てて戸が開いた。中は暗い。昨日、飛び出してきたときには気づかなかったが、たたきの三和土に黒ずんだ染みが点々と残っている。泥だと思いたかったが、潮臭い匂いが鼻についた。


 靴を脱ぐ。板張りの廊下へ上がった瞬間、足の裏から家の冷たさが伝わってきた。外の湿気とは質が違う。井戸の底みたいな、古い石の冷え方だ。


 昨日、電話台の前で“何か”に首を撫でられた場所がすぐ左手にある。受話器はもう戻されていた。誰が? 考えたくもない。電話台の横には、落ちたままだったはずの新聞束まできちんと揃えてある。


 三島もそれに気づいたらしく、小さく息を呑んだ。


「昨日、ここ片づいてました?」


「いいえ」


「じゃあ誰かが……」


「家や」


 文蔵が短く言った。


「人の形に戻しとる。客を迎えるためや」


 迎える、という言葉に背筋が粟立つ。


 廊下の奥から、家鳴りのような音がした。ぎし、ぎし、と古い梁が軋む。けれど、それは風や老朽化の音とは少し違っていた。足を組み替えるみたいに、順番に床が鳴っている。家そのものが体勢を変えているような音だった。


「仏間はこっちです」


 俺は記憶を頼りに廊下を進む。昨日、笑い声がした客間の襖は閉まっている。見ないようにして通り過ぎたが、襖の下の隙間から、誰かの足先が覗いている気がして視線を戻しかけた。文蔵に腕を掴まれ、前だけ見ろと目で制される。


 仏間の襖を開けると、むっとした線香の匂いが漂ってきた。


 祖母の遺影はそのまま飾られている。花は少し萎れていたが、昨日と違って水が替えられていた。湯呑みの茶も新しい。誰かが今朝、世話をしたみたいだ。


「三島さん、昨日ここ入りました?」


「いいえ。通夜の準備のとき以来です」


「じゃあ、これも家やな」


 文蔵は遺影を一瞥し、仏壇の前にしゃがみ込んだ。

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