うしろの間 第11話
仏間は八畳ほどで、壁際に古い桐箪笥と鏡台が置かれている。鏡台は黒檀らしい重厚な造りで、祖母が若いころ使っていたものだと聞いた覚えがある。鏡には白い布が掛けられていた。葬儀のあいだ、鏡を隠す風習があったのかもしれない。
「これか」
文蔵が鏡台の前に立つ。
「正樹、お前さんも手ぇ貸せ。重いぞ」
鏡台は見た目以上に重かった。脚を床に食い込ませるみたいに置かれていて、押してもなかなか動かない。三島も加わり、三人がかりで少しずつ前へずらす。畳の上を擦るたび、古い木が低く唸るような音を立てた。
鏡台の後ろには、土壁があるはずだった。
だが、現れたのは壁ではなかった。
畳一枚ぶんほどの、細長い木の戸だ。
壁と同じ色に塗られ、周囲にぴったり溶け込むようにはめ込まれている。知らなければ絶対に気づかない。戸には把手も鍵穴もなく、中央に古びた真鍮の丸い飾りがひとつ付いているだけだった。
三島が息を呑む。
「本当にあった……」
俺は言葉を失った。祖母のノートの「鏡のうしろ」が、こんなに文字通りの意味だとは思わなかった。
文蔵は戸の前にしゃがみ、指先で縁をなぞる。木の表面には細かな傷が無数に刻まれていた。爪で引っ掻いたような、細く長い傷。よく見ると、飾りの真鍮の周りだけ色が違う。誰かが何度もそこへ手をかけてきた痕だ。
「鍵は外にない」
文蔵が呟く。
「中から閉める戸か、血で開く戸か……」
さらっと嫌なことを言うな。
「血って」
「昔の家はようやる。指先切って金具に触らせるんや。家人かどうか確かめるためにな」
「冗談ですよね」
「冗談やったら楽やな」
文蔵は木箱から白い紙札を取り出し、戸の四隅に貼った。それから俺を見上げる。
「正樹、真鍮に触ってみ」
「は?」
「ええから。もし何も起きんかったら、別の開け方を考える」
嫌だった。嫌に決まっている。けれどここまで来て拒む理由も見つからない。俺は唾を飲み込み、戸の中央の真鍮に指を伸ばした。
触れた瞬間、びくっと手を引っ込めた。
熱い。
夏の日に日向へ置かれた金属みたいな熱さじゃない。人肌に近い熱だ。ずっと誰かが握っていたものに触れたみたいな、ぬるい熱。しかも、表面がわずかに湿っていた。
「何か……変です」
「どんな」
「温かい。いや、熱いっていうか……」
言い終わる前に、真鍮の飾りがことりと鳴った。
内側から、誰かがノックしたみたいな小さな音。
三島が後ずさる。文蔵の顔つきが変わった。
「一つや」
低く言う。
「数えろ」
俺は反射的に頷いた。
一つ。
家の中の空気が、ゆっくりと重くなる。仏壇の蝋燭は点いていないのに、遺影の前の金具がかすかに揺れた。廊下の奥から、誰かが歩いてくる気配がする。裸足だ。ぺたり、ぺたり、と湿った足音。
二つ目は、戸の向こうから聞こえた。
とん。
今度はさっきよりはっきりした音。階段を一段、誰かが上がったような音にも聞こえる。
「開くぞ」
文蔵が言う。
「は!?」
「今や。四つ目までならまだ家の内や」
文蔵は真鍮の飾りを強く押し込んだ。かちり、と乾いた音がして、木戸の縁がわずかに浮く。内側から冷気が漏れた。土の匂いと、湿った木の匂い。それに混じって、古い水の匂いがする。
三島が懐中電灯を構える。俺も無意識に息を止めた。
戸が、ゆっくり開く。
その向こうにあったのは、壁の裏に隠された狭い空間──ではなかった。
下へ向かう階段だった。
急で、細い木の階段。大人が一人やっと通れる幅しかない。手すりもなく、壁は土がむき出しだ。階段はまっすぐ下りたあと途中で左へ折れ、闇に消えている。懐中電灯の光を当てても、先が見えない。地下室というには深すぎる。まるで家の下に、もう一つ別の建物が埋まっているみたいだった。
三島がかすれた声を漏らす。
「本当に、下へ……」
「言うたやろ」
文蔵は木箱から小さな鏡を取り出し、階段の入口に吊るすように紐で結んだ。
「これで少しはましになる。下から上がってくるもんが、自分の顔見て足を止めることがある」
ことがある、という頼りない言い方が怖い。
「誰が先に行くんですか」
俺が訊くと、文蔵は当然みたいに答えた。
「お前さんや」
「なんで!」
「戸を開けたんはお前さんやし、家はお前さんを通す。わしらが先やと、閉まるか噛みつくかどっちかや」
噛みつくって何だよ。
抗議したかったが、そのとき廊下のほうでぱたんと襖の閉まる音がした。
三つ目。
家のどこかで戸が鳴いた。
同時に、階段の下の闇から、誰かが笑う声がした。女でも子供でもない、喉の潰れたような低い笑い。音量は小さいのに、すぐ耳元で囁かれたみたいに生々しい。
文蔵が俺の背中を押す。
「行け。四つ目が来る前に一番下まで見ろ。帳面か鍵があったら持って上がれ。絶対に名前に返事するな」
「いや、一人で!?」
「一人やないと降りられん」
言い終わるより早く、文蔵は俺の肩を強く押した。体が前へつんのめる。慌てて壁に手をつき、階段へ足をかける。後ろで三島が何か叫んだ気がしたが、同時に木戸がぎい、と嫌な音を立てて狭まった。
「待って──」
振り返った瞬間、文蔵の顔が戸の隙間に覗いた。いつものぶっきらぼうな顔じゃない。焦りと苛立ちが混じった険しい顔だ。
「下だけ見ろ! 上を気にするな!」
そこで戸が、ばたんと閉まった。
闇に取り残された。
俺は数秒、呼吸の仕方を忘れた。
真っ暗ではない。戸の隙間から漏れる光と、壁に掛けられた小さな裸電球のようなものが、階段をぼんやり照らしている。だがその電球は古びて茶色く曇り、光はほとんど役に立たない。下へ行くほど闇が濃くなる。
おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします




