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ホラー短編集  作者: 倉木元貴


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うしろの間 第12話

 足元の木は湿っていて、少しぬめる。壁に手をつくと、土が冷たい。地下の匂いに混じって、どこか甘ったるい臭気がする。腐った花の匂いだ。葬儀のあと何日も放置された供花みたいな、甘くて気持ち悪い匂い。


「……くそ」


 小声で悪態をつき、ゆっくり下り始める。


 一段ごとに、きし、と木が鳴る。音が妙に響く。家の地下というより、井戸の中を歩いているみたいだった。十段ほど下りたところで階段は左へ折れ、その先に小さな踊り場があった。踊り場の壁には、子供の背丈くらいの位置に細い傷が何本も刻まれている。数を数えるための印にも見えたが、規則性がない。爪で必死に掴んだ跡のようにも見える。


 踊り場の先には、また下り階段。


 どこまで続くんだ。


 そのとき、下から声がした。


「正樹」


 母の声だった。


 足が止まる。


 子供のころから聞いてきた声だ。少し低めで、怒ると早口になるあの声。聞き間違えるはずがない。


「正樹、そっちじゃない。戻って」


 喉がひりつく。返事するな、とわかっているのに、条件反射で「母さん?」と口が動きかける。慌てて歯を食いしばった。


 返事はない。代わりに、階段の下で何かがくすくす笑った。


「えらいね」


 今度は祖母の声。


「まだ返さんのやね」


「正樹」


 また母の声。


「その下には何もないよ。おばあちゃんももういない。戻っておいで」


 壁に爪を立てる。冷たい土が指の間に入り込む。声はどれも本物みたいだ。抑揚も、息継ぎの癖も、本人そのままに聞こえる。けれど、だからこそ異様だった。祖母は死んでいるし、母がこんな場所にいるはずがない。


 さらに下りる。


 階段の先に、ようやく床が見えた。三畳ほどの小さな空間だ。天井は低く、梁が剥き出しになっている。正面に木の机、その上に古い帳面が何冊か積まれ、横には真鍮の鍵が束ねて置かれていた。机の脇には火鉢、干からびた榊、割れた湯呑み。誰かがここで長いこと暮らしていたような、妙に生活感のある光景だった。


 その部屋の奥に、もう一つ戸がある。


 黒い板戸。表面に、何重もの札が貼られている。ほとんどは変色して読めないが、まだ新しいものが一枚だけあった。祖母の字だ。


 四つで止める

 五つ目に返事をするな

 おまえの顔をしていても戸を開けるな


 喉が乾く。


 机の上の帳面の一番上にも、祖母の字で大きく書かれていた。


正樹が来たら先にこれを読ませること


 俺は震える手で帳面を開いた。


 最初の頁には、日付も前置きもなく、いきなりこう書かれていた。


 正樹へ。これを読んでいるなら、たぶん私はもう死んどる。まず先に言う。すまん。おまえを呼び戻したのは私や。


 心臓が嫌な打ち方をする。


 おまえは小さいころ、この階段の前まで来た。覚えてないやろうけど、三つのときや。仏間で迷子になって、鏡台の前で泣いとった。私はそのとき戸を閉めたつもりやったのに、おまえはもう下を見とった。

 下から、おまえの声がした。

 同じ日に、上でもおまえが泣いとった。


 ページを持つ指に力が入らなくなる。


 何を言ってるんだ。


 俺は三つのころに、ここへ来ていた? 下から自分の声がした? そんな記憶はない。あるはずがない。


 帳面の文字は続く。


どっちを抱き上げたのか、今でもわからん。

わからんまま育ててしもうた。


 頭の中が真っ白になった。


 冗談じゃない。悪趣味にもほどがある。けれど祖母の字は震えていた。からかいで書く文章じゃない。言い訳にも見えない。ただ、ずっと抱え込んできたものを吐き出している筆跡だった。


 次の行を読もうとした瞬間、背後でとんと音がした。


 四つ目。


 反射的に振り返る。


 階段の上、踊り場のあたりに、誰かが立っていた。


 俺だ。


 さっき二階の窓にいたものと同じ顔、同じ体格、同じ服。けれど、暗いせいだけじゃなく輪郭が少しぼやけている。水面に映った姿みたいに、境界が揺れている。そいつは片手を壁につき、首を少し傾けて俺を見下ろしていた。


「それ、読んだんだ」


 俺の声で、そいつが言った。


「じゃあ、もうわかるだろ」


 口元だけが笑っている。


「上に戻るの、おまえのほうじゃないかもしれない」


 全身から血の気が引いた。


 逃げなきゃ、と思う。だが足が動かない。視線も逸らせない。そいつは一段、また一段と下りてくる。足音はしない。なのに階段だけが、きし、きし、と重そうに鳴る。


「ばあちゃん、ずっと迷ってたよ」


 そいつが言う。


「どっちを残したか。どっちを外へ出したか。おまえも知りたいだろ?」


 知りたくない。


 なのに、帳面の続きを見たい衝動が喉元まで込み上げる。祖母が何を書いたのか。俺が何なのか。母が何を見たのか。全部。


 そいつは笑ったまま、さらに近づいた。


「教えてやるよ。その帳面の最後を読めばいい。でも、読んだら上には戻れないかもね」


 そこで、奥の板戸の向こうから、どんと重い音がした。


 五つ目だ。


 部屋の空気が一瞬で変わる。地下室全体が息を吸ったみたいに膨らみ、次の瞬間、板戸の隙間から黒い液体がじわりと滲み出した。海水みたいな匂いが強くなる。札が一枚、ぺらりと剥がれた。


 階段の上の“俺”が、初めて顔色を変えた。


「やば」


 軽い口調なのに、その声だけは本物の焦りを含んでいた。


 同時に、頭上で文蔵の怒鳴り声が響いた。


「正樹! 上がれ!!!」


 我に返る。机の上の帳面と鍵束をひったくるように掴み、階段へ飛びついた。階段の上の“俺”が道を塞ごうと一歩踏み出す。思い切り肩からぶつかると、相手の体は意外なほど軽く、湿った布みたいにぐにゃりと揺れた。人間の手応えじゃない。冷たい泥にぶつかったような感触だった。


「待てよ」


 俺の声でそいつが笑う。


「まだどっちかわかってないだろ」


 無視して駆け上がる。背後で板戸がどん、どん、どんと狂ったように鳴り始めた。五つ目の向こう側が、完全に起きたのだとわかった。階段の壁から土がぱらぱら落ちる。上の木戸の隙間から、白い光が差し込んでいた。


「早よ!!!」


 最後の数段を飛ぶように上がり、木戸へ体当たりする。外から文蔵と三島が引っ張ってくれたらしく、戸が大きく開いた。俺は仏間の畳へ転がり出る。文蔵が即座に木戸を閉め、札を何枚も叩きつける。三島が塩を撒き、俺の手から帳面と鍵束をひったくって脇へ退けた。

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