うしろの間 第13話
直後、木戸の向こうでどん!!! と凄まじい衝撃が鳴った。
仏間の床が揺れる。鏡台がずれ、仏壇の花瓶が倒れた。三島が悲鳴を上げる。文蔵は歯を食いしばりながら木戸を押さえ、短く何か唱え続けている。
どん!!!
どん!!!
板戸の向こうの何かが、こちらへ出ようとしている。
「塩! もっと!」
文蔵が怒鳴る。
三島が袋ごと塩を撒く。俺も這うように近づき、手当たり次第に塩を木戸の前へぶちまけた。真っ白になった畳の上で、木戸の隙間から黒い液がじわりと滲み、塩に触れた瞬間じゅっと音を立てた。水じゃない。生き物みたいにうごめいている。
そのとき、廊下のほうで女の笑い声がした。
昨日の、腹の裂けた女の声だ。
さらに二階から、ぱたぱたと誰かが走る音。子供の足音。客間の襖の向こうからは、くすくすと笑う声。家じゅうの“もの”が、一斉に起き始めたのがわかった。
「まずい」
三島の顔が青ざめる。
「全部寄ってきてる」
「帳面を見たからや」
文蔵が唸るように言う。
「下のもんが、誰を出すか決めにきとる」
その言葉の意味を理解するより先に、文蔵が俺の襟首を掴んで引き寄せた。
「下で何を見た」
「……俺、みたいなのが」
「何言うた」
「どっちが上に戻るかわからない、って」
「ちっ」
文蔵は露骨に舌打ちした。
「やっぱりそこまで進んどるか」
「何なんですか、あれ」
俺は叫ぶみたいに訊いた。
「帳面には、俺が三つのときに──どっちを抱き上げたかわからないって、祖母が」
「今それ読むな!」
文蔵の声が飛ぶ。同時に木戸がまた激しく鳴った。今度は衝撃じゃない。爪で引っ掻く音だ。長い爪が内側から板を削っている。耳障りな、耐えがたい音。
「続きは二階や」
文蔵が言う。
「お前さんのばあさんが本当に残したかったもんは、まだ上にある。仏間の帳面は“入口”や。答えは二階の戸の向こうや」
「二階って……」
「昨日、お前さんが見た女も、窓の“お前”も、みんな上へ寄せとる。あそこが今の巣や」
「そんなとこ行けるわけ」
「行くしかない。下は今、開きかけとる。塞ぐなら上から家の形を崩すしかない」
また意味のわからないことを言う。だが説明を求める暇はなかった。仏間の天井で、みしっと大きな音が鳴ったのだ。誰かが二階の床を這っている。いや、一人じゃない。複数だ。重さの違うものが、仏間の真上をぐるぐる回っている。
天井板の継ぎ目から、ぱらぱらと白い粉が落ちてきた。
「……今の、何人ですか」
三島が震え声で言う。
文蔵は答えなかった。代わりに木箱を開け、短刀のようなものと小さな鏡を取り出して俺に押しつける。
「鏡は自分の顔を見るためや。おかしいと思ったらすぐ見ろ。短刀は人に向けるな。紙札は三枚だけ残しとる。二階の戸を見つけたら、勝手に開ける前に一枚貼れ」
「ちょ、ちょっと待ってください、俺が行く前提で話進めないで──」
「もう決まっとる」
文蔵は仏間の木戸に背を預けたまま、俺を睨んだ。
「下の帳面を読んだ時点で、お前さんは家に選ばれた。ここで逃げたら、向こうは“残る側”をお前さんに決める。二階にある最後の帳面か、戸の鍵を取ってこい。そうしたら、どっちを外へ出したのか──少なくとも、ばあさんが何を隠したかはわかる」
言い終わると同時に、廊下でとんと足音がした。
ぺたり、ぺたり、と湿った足音。昨日の裸足の女だ。
それだけじゃない。階段の上からも、俺自身の足音が聞こえる。二階にいる“俺”が、今度はちゃんと下りてきている。家の中で、本物の俺を探すように。
三島が喉を鳴らした。
「文蔵さん、もう時間が……」
「わかっとる。正樹、行け。二階のいちばん奥。昨日開いとった窓の部屋や。そこにもう一枚の鏡があるはずや」
「もう一枚?」
「高槻の家は鏡で戸を隠す。仏間に一枚、二階に一枚。上のほうが古い。たぶん、お前さんの母親が見たもんもそこに繋がっとる」
木戸の向こうで、何かが低く唸った。
同時に、廊下の襖がひとりでにすうっと開く。隙間から、女の片目がこちらを覗いた。口元だけが笑っている。腹の裂け目の奥で、何本もの指が蠢いていた。
「どうして」
女が言う。
「どうして、また帰る」
「おまえだけ、どうして外へ出る」
文蔵が塩をひとつかみ投げつける。女の顔にかかった瞬間、そいつは音もなく襖の奥へ引っ込んだ。だがすぐに二階から、俺の声で笑う声が落ちてきた。
「早くおいでよ」
天井の真上を、何かが走る。
ばき、と嫌な音がした。仏間の梁が一本、少し沈んだ。
「行け!」
文蔵が怒鳴る。
もう考える余地はなかった。鏡と短刀と紙札を抱え、俺は仏間を飛び出した。廊下の先、二階へ上がる古い階段が見える。そこへ向かって走る途中、左手の客間の襖が半分開いているのが目に入った。
中で、子供が座っていた。
五歳くらいの男の子。白いシャツに半ズボン、泥だらけの膝。こっちに背を向け、畳の上で紙風船をついている。ぽん、ぽん、と小さな音がする。
見覚えがあった。
あれは、子供のころの俺だ。
立ち止まりかけた瞬間、首の布袋がじわりと熱くなった。はっとして視線を逸らす。振り返るな、関わるな。そう自分に言い聞かせ、階段へ駆け寄る。
階段の一段目に足をかけたとき、上から“俺”が覗き込んでいた。
二階の踊り場の手すり越しに、同じ顔がにやりと笑う。
「遅いよ」
そいつはそう言って、ゆっくりと手を振った。
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