うしろの間 第14話
二階の踊り場から手を振る“俺”は、まるで友達でも迎えるみたいな顔をしていた。
「遅いよ」
その声は完全に俺のものだった。録音を聞かされたって、たぶん区別がつかない。けれど、耳に届いた瞬間わかる。あれは俺じゃない。声の奥に、ひどく湿った何かが混じっている。水を含んだ布を口いっぱいに詰め込んで喋っているみたいな、鈍い響きだ。
階段の下で足が止まりかける。
上がるな、と本能が叫ぶ。ここで踵を返して玄関まで逃げれば、まだ間に合うんじゃないか。そんな考えが一瞬よぎったが、仏間のほうから木戸を叩く音がまた響き、文蔵の怒鳴り声が重なった。
「正樹! 止まるな!」
くそ、と喉の奥で吐き捨て、俺は階段を駆け上がった。
“俺”は一段も下りてこなかった。ただ、踊り場の手すりに頬杖をつくみたいな格好で、面白そうに見下ろしている。階段を上がるほど、そいつの輪郭が少しずつはっきりしてくる。髪の毛の跳ね方、右頬の薄いニキビ跡、眉の形まで同じだ。違うのは目だった。白目の部分がわずかに灰色がかっていて、黒目の輪郭がぼやけている。夜の海の水をそのまま眼球に流し込んだみたいな目だ。
「本当に来るんだ」
そいつが笑う。
「ばあちゃんに言われたから?」
「黙れ」
言い返した瞬間、しまったと思った。返事をするな、話しかけるなと散々言われていたのに、反射で口が動いてしまった。
だが“俺”は嬉しそうにしただけだった。
「そう、それでいい。おまえ、声は返すんだな」
階段を上り切る。そいつはすっと後ろへ下がった。逃げるというより、誘うみたいな動きだった。二階の廊下は薄暗く、障子から差し込む昼の光も黄ばんで見える。空気が一階より冷たい。古い畳と湿った木、それにどこか鉄臭い匂いが混ざっていた。
昨日、俺が逃げ出した奥の部屋──窓が開いていた部屋は廊下の突き当たりにある。そこへ向かうあいだ、左右に三つ、襖が並んでいた。全部閉まっている。なのに、そのどれもがわずかに膨らんだり凹んだりして見える。内側で誰かが息をしているみたいに。
廊下の板が、ぎし、と鳴った。
一つ。
思わず数える。文蔵に言われた癖が、頭に焼きついていた。
“俺”は廊下の先を後ろ向きに歩きながら、こちらを見ている。
「ねえ。帳面、読んだ? どっちを抱き上げたかわからない、ってとこ」
無視する。歩幅を速める。
「気になるよな。三つの子供が二人いたんだぜ。ばあちゃん、どっちを育てたんだろうな」
胸の奥が冷たくなる。言葉の一つひとつが、嫌なところを狙ってくる。帳面の続きが気になって仕方ないのも事実だった。祖母の字は、明らかにまだ肝心なことを書き残していた。あれを途中で閉じたまま逃げてきたせいで、今の俺は自分の足元すら疑い始めている。
二つ目の音がした。
右手の襖の向こうから、こつん。
小さな、爪先で板を叩くみたいな音だ。
俺は歩きながら右の襖を見た。下の隙間から、暗い影が一瞬だけ動く。人の足じゃない。四つん這いの何かが、部屋の中で向きを変えたような影だった。
前を向き直ると、“俺”がもう目の前に立っていた。
ぶつかりそうになって慌てて止まる。そいつは笑っている。近くで見ると、顔の皮膚がほんの少しだけおかしい。水に長く浸かった指先みたいに、肌理がふやけている。唇の端には乾いた塩の粒がこびりついていた。
「この部屋」
そいつは突き当たりの襖を指した。
「開ける前に、鏡見たほうがいいよ」
言われて、首から提げた布袋の存在を思い出す。文蔵が押しつけてきた小さな鏡だ。反射的にポケットへ手を突っ込み、鏡を取り出した。手のひらサイズの、縁の欠けた丸鏡。そこに映った自分の顔は、ひどいものだった。血の気が引き、目の下に隈が落ちている。だがそれだけだ。俺は俺のままだった。
ほっとしかけた、そのとき。
鏡の中でだけ、“俺”が映っていなかった。
目の前には確かに立っているのに、鏡の中には廊下しかない。俺一人が、青白い顔で鏡を見ているだけだ。
息が止まる。
「な?」
目の前の“俺”が笑う。
「便利だろ、その鏡」
三つ目。
今度は、廊下の一番奥の窓がこんと鳴った。
窓の外から、誰かが爪でガラスを叩いたような音。昨日、旅館の窓を叩いたのと同じ調子だ。背中に汗が伝う。四つ目が来る前に部屋へ入らないとまずい気がした。ここで廊下に立ち尽くしているのは危険だ。
俺は“俺”の横を無理やりすり抜け、突き当たりの襖へ手をかけた。
「開けるの?」
背後で“俺”が言う。
「じゃあ、ちゃんと数えろよ」
襖を引く。
中は八畳の和室だった。昨日、窓に女が立っていた部屋だ。昼なのに妙に暗い。南向きのはずの窓は厚い雨戸で半分塞がれ、残りの隙間から細い光が斜めに差し込んでいる。畳は古く、部屋の中央に丸い座卓、壁際には箪笥と、そして──
鏡台があった。
一階の仏間にあったものより小さいが、よく似た古い鏡台だ。木目は黒ずみ、引き出しの金具が緑青を吹いている。こちらの鏡にも、白い布が掛けられていた。
部屋へ一歩入った途端、襖の外の“俺”の気配が消えた。
振り返るのが怖かったが、意を決して振り向く。廊下には誰もいない。襖の向こうはしんと静まり返っている。さっきまでの会話が全部、熱に浮かされた幻みたいに感じられるほどだ。
でも、鏡の中に映らなかった。あれは本当にそこにいた。
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