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ホラー短編集  作者: 倉木元貴


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うしろの間 第15話

 俺は襖を閉めかけて、思いとどまった。閉めると逃げ道がなくなる気がしたからだ。半分だけ開けたまま、部屋の中を見回す。


 壁際の箪笥の上に、写真立てが伏せて置かれている。窓際には子供用の小さな椅子。床の間には何も飾られていないが、柱に低い位置の傷がいくつも残っている。背比べの跡だろうか。十センチ刻みくらいで線が引かれ、横に鉛筆で日付らしいものが書かれていた。古すぎて読めないが、一番低い線のあたりに、かろうじて「まき」と平仮名が見えた。


 母の名前だ。


 ここ、母の部屋だったのか。


 そう気づいた瞬間、空気の質が変わった。


 誰かがこの部屋をじっと見ている。そんな気配が、首筋にまとわりつく。廊下からじゃない。部屋の中からだ。


 俺はゆっくり視線を動かし、鏡台に掛けられた白布を見た。


 布の下の鏡面が、わずかに膨らんでいる。


 そんなはずはない。鏡が布を内側から押し上げているように見えたのだ。呼吸しているみたいに、ほんの少しだけ膨らみ、また戻る。


 四つ目の音がした。


 かりっ。


 鏡台の中からだった。


 爪先で鏡を引っ掻いたような、短い音。


 喉が縮む。これで四つ。次が五つ目だ。昨日の旅館と同じなら、五つ目が来た瞬間に“外から来るもの”が入ってくる。


 なら、その前に終わらせるしかない。


 俺は文蔵から渡された紙札を一枚取り出し、鏡台の引き出しに貼った。それから白布の端を掴む。指先が震えて、うまく力が入らない。


「……頼むから、何もないでくれ」


 祈りにもならない声で呟き、布を引いた。


 鏡には、部屋が映っていた。


 俺、座卓、窓、半開きの襖、箪笥。そこまでは普通だ。問題は、鏡の中の部屋にはもう一人、女の子がいることだった。


 十歳くらい。白い半袖のブラウスに紺のスカート。肩で切り揃えた髪。痩せた背中をこちらに向け、床の間の前に立っている。


 母だ。


 写真で見た、小学生のころの母に間違いない。


 だが鏡の中の母は、今の部屋に存在しない。実際の床の間の前には誰もいない。鏡の中にだけ、昔の母が立っている。そして、その母はおそるおそる右手を上げ、床の間の柱を押した。


 鏡の中の柱が、音もなく横へずれる。


 その向こうに、細い隙間が現れた。暗い穴。仏間の鏡台の裏にあったものと同じだ。母は一度だけ後ろを振り返る。泣きそうな顔をしている。その視線の先──つまり鏡のこちら側には、誰がいたのか。


 祖母だ。


 いや、違う。鏡の端に、着物の袖だけが映り込んでいる。そこに立っている大人の顔は見えない。だが、次の瞬間、部屋の外から女の声が飛んだ。


「真紀!」


 祖母の若いころの声だ。


 鏡の中の母はびくっと肩を震わせる。けれど、もう遅い。隙間の向こうの闇から、誰かが名前を呼んだ。


「まき」


 幼い男の子の声だった。


 俺の背中に冷たいものが走る。


 違う。俺の声じゃない。もっと幼い、三つか四つの子供の声。けれど、どこか聞き覚えがある。ホームビデオに残っている、幼いころの自分の声に少し似ている。


 鏡の中の母が、穴へ顔を寄せる。


「だれ?」


 と、小さく訊く。


 返事はない。代わりに、暗闇の奥から白い手が一本、ゆっくり伸びてきた。子供の手だ。泥だらけで、爪の間に黒いものが詰まっている。その手が、母の袖をきゅっと掴んだ。


 鏡の中の母が悲鳴を上げる。


 同時に、現実の部屋の中で、ぱたんと襖が閉まった。


 五つ目。


 部屋の空気が凍りつく。


 振り返る。さっき半開きにしておいた襖が、ぴたりと閉じていた。誰も触っていないのに。窓の外で、何かがずるりと這う音がする。壁の向こう、廊下の床板が重く軋む。誰かが部屋の前まで来て、立ち止まったのがわかった。


 鏡の中では、母が穴から子供の手を振り払おうとしていた。祖母の袖が飛び込んでくる。大人の手が母の髪を掴み、後ろへ引く。母は泣き叫ぶ。だが闇の中から、今度はもう一人、母と同じ顔の子供が這い上がってきた。


 目の前がぐらりと揺れた。


 迎え子だ。


 鏡の中の二人の少女は、髪型も服も顔も同じだった。片方は祖母に髪を掴まれて必死に後ろへ引かれ、もう片方は暗闇から這い出ながら、土まみれの顔で笑っている。どちらが本物の母なのか、一瞬では見分けがつかない。違いがあるとすれば、後から出てきたほうの足首に、黒い泥がべっとり付いていることくらいだ。


 鏡の中の祖母が叫ぶ。


「目ぇ閉じろ真紀! そっちを見るな!!」


 次の瞬間、鏡面にひびが走った。


 ぱき、と乾いた音。中心から蜘蛛の巣みたいに亀裂が広がる。映像がぶつりと切れ、鏡の中の母も祖母も消えた。残ったのは、ひび割れた鏡に映る今の俺だけだ。


 その俺の背後に、誰かが立っていた。


 鏡の中にだけ見える。現実の背後にはいない。はずなのに、肩越しに冷たい息がかかった気がした。


 腹の裂けた女だった。


 顔が近い。右の目はぽっかり窪み、左の目だけがぎょろりと光っている。髪は濡れて頬に貼りつき、口は耳まで裂けていた。腹の傷の中で、白い指が何本ももぞもぞ動いている。


 女は鏡越しに俺を見て、にたりと笑った。


「みつけた」


 全身が凍る。振り向いてはいけない。そうわかっているのに、体が勝手に動きかける。

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