うしろの間 第16話
そのとき、首の布袋が熱くなった。
はっとして、俺は手の中の小さな鏡を思い出す。文蔵の鏡だ。反射的にそれを目の前へ掲げた。小さな鏡の中には、俺一人しか映っていない。背後の女は映らない。代わりに、俺の首筋に黒い指の痕がいくつも浮いていた。昨夜旅館で触られた場所だ。そこが、今まさにじわじわ広がっている。
女が耳元で囁いた。
「そっちじゃない。おまえは、下から来たほう」
叫びそうになるのを噛み殺し、俺は鏡台を蹴った。古い木が大きく傾き、ひび割れた鏡面が壁へぶつかって砕ける。甲高い破裂音と一緒に、女の笑い声が途切れた。
同時に、部屋の隅で何かが倒れる音がした。
箪笥の上に伏せられていた写真立てが、床へ落ちている。
俺は荒い息のまま、反射的にそれを拾い上げた。
写真は、昨日文蔵に見せられた白黒写真とは別物だった。色褪せたカラー写真。撮られたのはたぶん二十年近く前だろう。仏間で撮られたらしい家族写真だ。中央に若い祖母、その横に小学生の母。そして、祖母の膝の前に座らされている三歳くらいの男の子──たぶん俺。
だが、おかしい。
男の子が二人いる。
写真の左下、祖母の膝の前に座る子供が一人。もう一人は、そのすぐ後ろ、仏間の襖の陰から半分だけ顔を出している。どちらも同じ顔、同じ髪型、同じ服だ。双子写真のトリックみたいに見えるが、祖母も母も、カメラに向かってひどくこわばった顔をしている。記念写真の顔じゃない。何かを見てはいけないものとして見つめている顔だ。
写真の裏に、祖母の字で短く書いてあった。
真紀には見せた
正樹には見せるな
もし私が先に死んだら、二階の鏡を割ってから帳面の終いを読ませること
帳面の終い。
下から持ってきた祖母の帳面の続きが、また頭をよぎる。そこに俺のことが書かれている。たぶん、今の写真と繋がる何かが。
廊下の向こうで、ぺたり、ぺたり、と湿った足音が近づいた。
それだけじゃない。部屋の外で、俺の声がする。
「開けてよ」
さっきの“俺”だ。
「見つけたんだろ? 写真の裏、読んだ? じゃあ次は帳面だ」
襖の向こうに、気配が二つある。腹の裂けた女と、“俺”。どちらも部屋へ入りたがっている。
俺は写真をポケットへ突っ込み、砕けた鏡の破片を避けながら座卓のそばへ下がった。部屋の中をもう一度見回す。何かある。祖母が「鏡を割ってから読ませろ」と書いた以上、まだこの部屋に次の手がかりがあるはずだ。
視線が、床の間の柱へ止まった。
鏡の中で母が押していた場所だ。
俺は駆け寄り、柱の継ぎ目を探る。木の表面は古く乾いているが、一箇所だけ指先がわずかに沈むところがあった。そこを押すと、柱の横の壁板がすっと数センチだけ浮く。
隠し戸だ。
外の“俺”が、襖越しに笑った。
「見つけた。やっぱりそっちだった」
無視して、壁板を横へ引く。中には薄い引き出しのような空間があり、布に包まれた細長いものと、封筒が一通入っていた。封筒の表に祖母の字で、正樹へ 二階の鏡を割ったあとで開けることとある。
これだ。
封筒を掴んだ瞬間、襖がどんと鳴った。紙が震える。腹の裂けた女が外から体当たりしたのかもしれない。続けて、上からも音がした。天井裏を何かが走り回っている。しかも一匹や二匹じゃない。小さな足が何本も、ばたばたと動く。
もうここに留まるのは無理だ。
封筒と布包みを抱え、俺は襖へ向かった。開ける前に息を止め、文蔵の言葉を思い出す。目を合わせるな。話しかけるな。返事をするな。
勢いよく襖を開く。
廊下には、誰もいなかった。
……いや、違う。
廊下の突き当たり、階段の手前に、背中を向けた女が立っている。濡れた黒髪が腰まで垂れ、白い着物の裾がびしょ濡れで床に張り付いている。腹のあたりだけが不自然に膨らみ、そこから細い指が何本も覗いていた。
女はこっちを向かない。
ただ、廊下の板に濡れた足跡だけを残して、ゆっくり階段のほうへ歩き出した。まるで「ついてこい」とでも言うみたいに。
その後ろ姿の向こう、階段の踊り場には“俺”が立っていた。
手すりにもたれ、笑っている。
「持ってるの、手紙だろ。それ、最後まで読むと困るよ。だって、もしおまえが──」
そこで、仏間のほうから文蔵の絶叫が響いた。
「正樹ッ! 来るぞ!!」
同時に家じゅうが大きく軋んだ。
足元が跳ねる。地震かと思うほどの揺れ。仏間の木戸がとうとう壊れかけているのだと、理屈抜きでわかった。天井から白い土が降り、廊下の壁にひびが走る。
“俺”の笑顔が消えた。
「まずいな」
初めて、そいつの声に本気の緊張が混じる。
「五つ目が、上まで来る」
女が階段の途中で立ち止まる。濡れた首が、ぎり、と不自然な角度でこちらへ回りかける。
見たら終わる。そう思った瞬間、俺は廊下を蹴って走った。
女の横をすり抜け、階段を飛び降りる。横目で見た女の腹の裂け目から、白い子供の手が何本も伸びてきていた。俺の裾を掴みかける。咄嗟に短刀の鞘で払いのけると、ぬるりとした感触と一緒に、子供の笑い声が弾けた。
階段を下りきると、仏間の襖が開いていた。中は滅茶苦茶だ。鏡台は倒れ、塩が畳一面に散らばり、木戸の札は半分以上剥がれている。文蔵が木戸を押さえ、三島が泣きそうな顔で塩を追加していた。
「取れたか!」
文蔵が怒鳴る。
「手紙と、なんか包みが!」
「よし、そっち寄越せ!」
仏間へ飛び込み、封筒と布包みを文蔵へ投げる。文蔵は布包みだけを受け取り、乱暴に解いた。中から出てきたのは、古い真鍮の鍵だった。仏間の下から持ち出した鍵束のどれよりも古く、太い。頭の部分に、鏡と同じ丸い意匠が刻まれている。
「やっぱりこれや……」
文蔵の顔が険しくなる。
「何なんです、それ」
三島が叫ぶ。
「閉める鍵ですか!?」
「逆や。開ける鍵や」
嫌な沈黙が一瞬落ちた。
「ばあさん、最後まで持っとったんか……。阿呆が」
文蔵は歯噛みし、俺に向き直る。
「正樹、封筒はまだ開けるな。今読むと足を取られる。先に家を出るぞ」
「でも帳面の続きが」
「後や!」
木戸の向こうで、ばきっと嫌な音がした。板が割れたのだ。黒い液体が塩の上へ一気に溢れ出し、じゅうじゅう音を立てる。部屋の温度が急激に下がる。吐く息が白くなりそうなほどだ。
そのとき、二階から“俺”の声が降ってきた。
「逃げるの?」
声だけじゃない。廊下に足音が三つ、四つ、五つと重なる。濡れた女、子供、そして俺。家の中のものが全部、仏間へ集まってくる。
「逃げるなら、連れてってよ」
俺の声が、すぐ真上で笑った。
天井板が、内側から膨らんだ。
おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします




