うしろの間 第17話
天井板が、ゆっくりと下へたわんだ。
最初は気のせいかと思った。古い家だ、さっきから家中が軋んでいる。天井が少したわむくらい、今さら不思議でもない──そう思いかけた次の瞬間、板と板の隙間から、黒い水が一筋、ぽたりと落ちた。
畳の上でそれは丸く広がり、塩に触れた途端じゅっと白い煙を上げる。
「下がれ!」
文蔵の怒声が飛んだ。
ほぼ同時に、天井がばきんと裂けた。
板が内側から蹴破られる。白い土と木屑が降り注ぎ、穴の向こうから何本もの腕が垂れ下がった。子供の腕だ。細く、白く、泥にまみれた腕。それが天井裏からぞろぞろと垂れ、手探りするみたいに空中を掻く。一本、二本じゃない。五本、七本、十本。どれがどの体に繋がっているのかわからないほど、無秩序に絡まり合っている。
三島が悲鳴を上げて尻餅をついた。
その腕の束の向こうから、顔が覗いた。
俺だ。
天井裏から逆さに顔を出し、髪をぶら下げた“俺”が、真っ黒な目で仏間を見回している。頬に泥が張り付き、口元は子供みたいに無邪気に笑っていた。
「いた」
逆さまの“俺”が言う。
「やっと見つけた」
文蔵が木箱から何かを掴み、躊躇なく投げつけた。小さな陶器の瓶だった。天井穴の縁で割れ、中から白い粉が弾ける。塩だ。逆さまの“俺”の顔にかかった瞬間、そいつの笑顔が歪んだ。焼けた肉みたいな臭いが立ち、天井裏の子供の腕が一斉に引っ込む。
だが遅い。
仏間の木戸が、ついに限界を迎えた。
ばきっ。
中央に一本、縦の裂け目が走る。そこから黒い液体が吹き出した。水じゃない。泥とも違う。もっと粘り気のある、古い血を溶かしたみたいな色と質感のものだ。塩の上を這い、畳の縁を濡らし、俺の足元まで迫ってくる。匂いは潮と腐臭と線香が混ざったようで、吸い込むだけで吐き気がした。
「もう持たん!」
三島が叫ぶ。
「文蔵さん、どうするんですか!」
「出る! 今すぐや!」
文蔵は裂けた木戸へ札を何枚も叩きつけると、残っていた塩袋をひっくり返し、俺の腕を乱暴に掴んだ。
「封筒は持っとるな」
「はい!」
「絶対離すな!」
次の瞬間、木戸の裂け目の向こうから、誰かの目が覗いた。
黒目のない、真っ白な目だった。
その目が、ぬるりと裂け目に押しつけられる。眼球の周りの皮膚が木の棘で裂けても、まるで痛みを感じていないみたいに押し込まれ続ける。ぎちぎちと嫌な音が鳴る。三島が半狂乱で塩を投げつけると、目は引っ込んだ。代わりに、向こう側から笑い声が漏れてくる。男とも女ともつかない、何十人分もの喉が重なった笑いだ。
「行け!」
文蔵が俺の背中を押す。
仏間を飛び出す。廊下へ出た瞬間、右の客間の襖が大きく開いた。中に、子供がいた。さっき見た、幼い俺だ。畳の上に正座し、紙風船を膝に抱いてこちらを見ている。顔色は死人みたいに青白いのに、目だけがやけに澄んでいた。
「まさき」
小さな声で、そいつが呼ぶ。
足が止まりかける。
だが、首の布袋が焼けるように熱くなった。はっとして視線を逸らす。文蔵が俺を追い越しざま、客間へ塩を蹴り込む。子供は一瞬で暗闇に溶け、襖がばたんと閉まった。
廊下の先、玄関までの道が妙に遠く感じる。家が伸びたみたいだ。走っても走っても、玄関の薄明かりが近づかない。壁の向こうから、ばたばたと何かが這い回る音がする。二階では“俺”が笑い、女の濡れた足音が階段を下りてくる。
家が、帰さないつもりだとわかった。
「正樹! 鏡!」
文蔵が叫ぶ。
意味がわからず振り返ると、廊下の突き当たり──さっきまで仏間の入口があった位置に、いつの間にか大きな鏡が立っていた。仏間の鏡台に掛かっていたのと同じ、白布を剥がされた鏡だ。そこに映っているのは廊下ではない。薄暗い地下の部屋、机、帳面、そして黒い板戸。
鏡の中の板戸が、ゆっくり開き始めていた。
「見るな!」
文蔵の声で我に返る。
同時に、三島が俺の肩に体当たりしてきた。よろめく。次の瞬間、さっきまで俺が立っていた場所を、天井から落ちてきた何かが掠めた。泥まみれの子供だ。四つん這いのまま廊下に着地し、首だけをぐるりとこちらへ向ける。顔は俺の幼いころにそっくりだった。だが口が耳まで裂け、その奥で小さな歯が何列も光っている。
「ひっ……」
三島が喉を詰まらせる。
子供は笑いながら、床板を叩いて跳ねた。獣みたいな速さでこちらへ這ってくる。俺は咄嗟に短刀を抜いた。刃渡り十センチほどの古びた短刀だ。人に向けるなと言われていたが、あれを人間だと思えなかった。振り下ろすと、子供の肩口をかすめる。手応えは、濡れた布団を切ったような奇妙な軽さだった。傷口から血の代わりに黒い泥が飛び、子供は悲鳴ではなく笑い声を上げて後ろへ跳ぶ。
「玄関や!」
文蔵が怒鳴る。
今度こそ三人で廊下を駆ける。途中、電話台の前を通り過ぎたとき、受話器がひとりでに持ち上がった。誰も触っていないのに、コードにぶら下がって揺れている。そこから、母の声が聞こえた。
『正樹、出ちゃだめ』
耳元で囁かれたみたいに近い。
『今出たら、もう戻せない』
危うく振り向きそうになる。だが三島が「聞くな!」と叫び、俺の腕を引っ張った。玄関の光がようやく目前に迫る。外だ。あと数歩。そこで、引き戸がすうっと閉まり始めた。
「うそだろ!」
俺は全力で飛びついた。指が戸の縁にかかる。重い。信じられない力で内側へ引かれている。文蔵が後ろから肩を押し込み、三島も横から体をぶつける。戸の向こう、玄関の土間に黒い水が溜まり、その中から白い手が何本も伸びていた。手首から先だけの子供の手だ。戸の隙間に指をかけ、閉めようとしている。
「塩を寄越せ!」
文蔵が叫ぶ。
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