うしろの間 第18話
三島が最後の塩袋を戸の隙間へ叩き込む。白い塩が黒い手に降りかかった瞬間、手が一斉に縮み上がった。甲高い悲鳴。今しかない。俺たちは戸をこじ開け、ほとんど転がるように外へ飛び出した。
石段に倒れ込む。直後、玄関の引き戸が内側からばんっと閉まった。すぐ裏で何かが何度もぶつかる音がする。家そのものが暴れているみたいに、窓ががたがた震え、二階の雨戸が鳴る。
俺は咳き込みながら振り返った。
二階の窓に、“俺”が立っていた。
今度ははっきり見える。雨戸の隙間から顔を出し、片手をガラスに押し当てている。そのすぐ後ろには、濡れた髪の女。そして、その足元には、何人もの子供がうずくまってこちらを見ていた。
“俺”が口だけで言う。
つぎは、どっちが帰る?
ぞっとして目を逸らした。
文蔵が荒い息のまま、家へ塩の輪を描くように撒いている。三島は石段の下にへたり込み、震える手でスマホを握りしめていた。俺の手の中には、汗で湿った封筒がまだ残っている。
「……今、読め」
文蔵が言った。
声が掠れている。さっきまでの強さが少し削げていた。
「ここで?」
「今や。家から離れた。読むなら今しかない」
俺は膝の上で封筒を見つめた。祖母の字が震えている。正樹へ 二階の鏡を割ったあとで開けること。 指先で封を裂く。中には便箋が三枚と、小さな古いお守りが入っていた。黄ばんだ布袋に、赤い糸が巻かれている。
便箋を開く。
最初の一行を読んだ瞬間、胃の底が冷たくなった。
正樹へ。
まず先に言う。私はおまえの母親に、ずっと嘘をついとった。
そしておまえにもついた。
この家におるもののことも、おまえが三つのときに何があったかも、全部黙って育てた。
黙っておけば外で生きられると思うた。けど、あかんかった。向こうは覚えとった。
文蔵も三島も黙っている。家の中から時折、遠くの波みたいな唸りが聞こえるだけだ。俺は唾を飲み込み、続きを追った。
高槻の家には、昔から“迎え子”がおる。
水で死んだ子、腹で死んだ子、名前を呼ばれんまま消えた子、そういうのを家が拾う。拾うたもんは家の下に溜まる。溜まったもんは、いつか外へ出たがる。
そのために、家の者の顔を借りる。
最初は影、次に声、最後に“まるごと”や。
私が嫁いだ時には、もう下の戸はあった。姑から、五つ目が鳴るまでは覗くな、子供を近づけるなと言われた。
けど真紀が十のとき、あの子は二階の鏡を見てしまった。
鏡の向こうから、自分の名前を呼ぶ子に返事をした。
その日、真紀は二階の戸を開けた。
ここで一度、字が大きく乱れていた。祖母の筆圧が紙を破りかけている。
戸の向こうから、真紀が二人出てきた。
一人は泣いて私にしがみついた。
もう一人は黙って笑っとった。
足首に泥がついとった。
私は、泥のないほうを抱き上げた。
そう思う。
そう思いたい。
けど、今でもほんまにそうやったか、自信がない。
真紀はそのあと熱を出して、三日ほど何も覚えておらんかった。私は何も言わんかった。夫にも言えんかった。
そのまま、真紀は大きうなった。
嫁に行って、おまえを産んだ。
そこで、手が止まった。
風が吹いたわけでもないのに、便箋の端がかさりと鳴る。読まなくても次の内容がわかってしまいそうで、目を逸らしたくなる。だが逸らせない。
おまえが三つのとき、真紀が里帰りしてきた。
その日は雨で、家の中がよう鳴いとった。
私は嫌な気がして、おまえを二階に上げんようにしとった。
けど、ほんの少し目を離した隙に、おまえはおらんようになった。
仏間で泣き声がして、鏡台の裏の戸が開いとった。
下から、おまえの声がした。
振り向いたら、仏間にもおまえがおった。
二人とも泣いとった。
二人とも私を見て“ばあば”と言うた。
喉が詰まる。視界がぶれる。字が滲んで、次の行を読むのに時間がかかった。
私は、片方を抱いた。
もう片方は、戸の向こうへ引っ込んだ。
そのとき、どちらを抱いたのか、ほんまにわからん。
足首を見た。泥はなかった。
けど、真紀のときも私は泥のないほうを選んだ。
それで正しかったか、今でもわからん。
おまえを家から出してから、二階の鏡にもう一人の正樹が映るようになった。
真紀は見た。私は見た。けどおまえには言わんかった。
外で育てば薄くなると思うた。
けどおまえは、六つのときに風呂場で“もう一人の自分と遊んだ”と言うた。
九つのときには、夜中に勝手に家の外へ出て、川のほうへ歩いとった。
十二のときには、水の中から名前を呼ぶ声がすると泣いた。
全部、私は見て見ぬふりをした。
思い当たる節が、いくつもあった。
小さいころ、風呂場の曇った鏡に誰かがいる気がして泣いたこと。夜中に無意識に外へ出て、母にこっぴどく叱られたこと。川辺で溺れかけた夢を何度も見たこと。どれも断片的で、子供の変な癖くらいにしか思っていなかった。母も祖母も、何も説明しなかったから。
便箋の最後の一枚をめくる。ここから先は、祖母の字がさらに乱れていた。
もし今、おまえがこの手紙を読んでいるなら、私は死んで、家がもう隠しきれんようになったんやろう。
その場合、覚えておいてほしいことが三つある。
一つ。
迎え子は、外へ出るために“残る側”と“帰る側”を決めたがる。
おまえが家に戻った時点で、向こうはもう決めにきとる。
おまえが自分を疑えば疑うほど、向こうは強うなる。
二つ。
二階の鏡を割ったなら、次は下の戸を閉めなあかん。
その鍵は、二階に隠した。文蔵に渡しなさい。あの人ならやり方を知っとる。
ただし、鍵を使うには“どちらが外におるのか”を決めなあかん。
家は曖昧なままでは閉まらん。
三つ。
どうしても決められんかったら、真紀に聞きなさい。
あの子だけが、一度“向こう”から戻ってきた。
あの子は自分がどっちか、たぶん知っとる。
知っていて、おまえに言わんかった。
最後の行で、息が止まった。
私は、真紀がほんまに私の娘やったのかも、もう自信がない。
それでも育てた。おまえも同じや。
血がどうとか、本物がどうとか、もう私にはわからん。
けど、もしおまえがうちの正樹でないとしても、三つから先の時間は、おまえのもんや。
それだけは、嘘やない。
すまん。
ばあばより。
読み終えた瞬間、全身から力が抜けた。
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