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ホラー短編集  作者: 倉木元貴


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うしろの間 第19話

 便箋が膝から滑り落ちる。石段の下の土に触れ、じわりと湿った。頭の中が真っ白だった。祖母は最後まで確信を持てなかった。母が本物かどうかも、俺が本物かどうかも。泥のない足首を見て選んだ、それだけ。そんな曖昧な判断で、二十年以上の人生が積み上がっていたのか。


「……ふざけんなよ」


 自分でも驚くほど、低い声が出た。


「そんなの、わかるわけないだろ」


「今さら、何を信じろって言うんだよ」


 便箋を握る手が震える。怒りなのか恐怖なのか、自分でも区別がつかない。祖母に対してか、母に対してか、それとも自分の足元が崩れていく感覚に対してか。


 三島が恐る恐る口を開いた。


「高槻さん……」


「母さんは知ってたってことですか」


 俺は三島じゃなく、文蔵に向かって訊いた。


「俺がどっちか、知ってて黙ってたってことですか」


 文蔵はすぐには答えなかった。家を見上げ、塩の輪の切れ目を足で埋めながら、しばらく黙っていた。やがて、諦めたように息を吐く。


「たぶん、知っとる」


「“たぶん”じゃなくて」


「知っとるやろうな」


 文蔵ははっきり言った。


「少なくとも、お前さんの母親は十のときに一度、二人になっとる。そんで戻された。戻された側の人間は、自分がどっちやったか完全には忘れん。忘れたふりはできてもな」


 胃がひっくり返るみたいな感覚がした。


「じゃあ、俺が小さいころに変なことがあったのも」


「気づいとったやろ。けど言わんかった。言うたら、お前さんが自分を疑う。疑えば疑うほど、向こうに引かれるからや」


「……今めちゃくちゃ疑ってますけど」


「せやから最悪なんや」


 文蔵は俺の手から便箋を受け取り、ざっと読み返したあと、真鍮の鍵と一緒に木箱へしまった。


「けど、手がかりは出た。次にやることは決まった」


「何を」


「お前さんの母親に会う」


 文蔵は言った。


「真紀に、三つのとき何があったか聞く。二階の鏡の向こうで何を見たかも聞く。あの人が黙っとる限り、家は曖昧なままや。曖昧なままやと、下の戸は閉まらん」


 三島が顔を上げる。


「でも、真紀さんって今……」


「多久島市内の病院や」


 文蔵が答える。


「今朝、意識が戻ったって連絡が入っとる」


 俺は顔を上げた。


「母さんが?」


「お前さんが二階の鏡を割ったあたりで、急に脈が安定したらしい。家と繋がっとったもんが少し緩んだんやろうな」


「なんでそれ先に言わないんですか!」


「言う暇あったか!」


 確かにその通りだった。だが腹は立つ。


 病院。母が起きた。しかも祖母の手紙は、真紀に聞けと書いている。もう逃げ場がない。俺がどっちなのか。母はどっちなのか。家の下に何が溜まっているのか。全部、母が知っているかもしれない。


 そのとき、家の二階でガラスの割れる音がした。


 俺たちは同時に振り返る。


 二階の窓が内側からひび割れ、白いカーテンがゆっくり揺れた。さっきまで立っていた“俺”の姿は見えない。代わりに、窓ガラスの内側へ、無数の手形がぺたぺたと浮かび上がっていく。大人の手、子供の手、指の足りない手。数え切れないほどの手形が、曇ったガラスを埋めていく。


 その中央に、たった一つだけ、俺の手と同じ大きさの手形があった。


 指先が、ゆっくり五回、ガラスを叩く。


 こん。

 こん。

 こん。

 こん。

 こん。


 三島が顔を引きつらせる。


「……五つです」


「ああ」


 文蔵が低く答えた。


「向こうも、次の手を打ってきよる」


 五つ目が鳴いた。家の外にいるのに、五つ目が聞こえた。


 嫌な予感が背骨を這い上がる。文蔵もそれを感じたらしく、急に周囲を見回した。坂の下、駐車場、墓地のほう、山道の奥。どこも静かだ。蝉の声さえ聞こえない。


 代わりに、スマホが震えた。


 俺のじゃない。三島のだ。


 三島が震える指で画面を見る。顔色がさっと変わった。


「……病院からです」


「出ろ」


 文蔵が言う。


 三島は通話ボタンを押し、耳に当てた。


「もしもし、三島です。はい……はい」


 数秒の沈黙。


「え?」


 もう一度。


「え、今なんて──」


 三島の喉がひゅっと鳴った。スマホを持つ手が下がる。顔から血の気が失せていた。


「どうした」


 文蔵が鋭く訊く。


 三島は口を開けたまま、うまく声が出ないみたいだった。ようやく絞り出した声は、かすれていた。


「真紀さんが……病室から、いなくなったそうです」


 一瞬、意味がわからなかった。


「いなくなった?」


「ついさっきまでベッドにいたのに、看護師さんが目を離した数分の間に……」


 三島の視線が、ゆっくり祖母の家へ向く。

「窓が開いてて、床が濡れてたって」


 空気が止まる。


 文蔵が舌打ちした。


「間に合わんかったか」


「何が」


 俺が訊くと、文蔵は家を睨んだまま言った。


「迎えに行きよったんや。母親を」


「誰が」


 文蔵は答えなかった。答える必要もなかった。

 二階の窓の奥、無数の手形の向こうに、女の顔が浮かび上がったからだ。


 母だった。


 病院着のまま、青白い顔で窓の向こうに立っている。だが目は閉じていて、まるで眠ったまま連れて来られたみたいだった。その肩に、“俺”が手を置いている。母の背後には腹の裂けた女。さらに足元には、泥まみれの子供たち。


 母の口が、ゆっくり開く。


 声はここまで届かない。けれど、唇の動きだけでわかった。


 逃げて


 その直後、母の背後から白い手が何本も伸び、首と腕と口を押さえつけた。母の姿が窓の奥へ引きずられていく。“俺”だけが最後までこっちを見て、楽しそうに笑っていた。


 俺は立ち上がっていた。


「待て!」


 石段を駆け上がろうとした俺の腹に、文蔵の腕が叩き込まれた。息が詰まり、前のめりに止まる。


「離せ! 母さんが!」


「今入ったら終わりや!」


「でも!」


「見ろ!」


 文蔵が家を指差す。


 玄関の戸が、ひとりでに開いた。


 暗い土間の奥から、ゆっくり誰かが出てくる。裸足の女か、“俺”か、あるいは別の何かか──そう思って身構えた俺は、次の瞬間、全身が凍りついた。


 出てきたのは、母だった。


 病院着のまま、髪を振り乱し、素足で石段へ降りてくる。顔は青ざめ、足元はふらついているが、間違いなく母だ。さっき二階の窓の奥へ引きずり込まれたはずの母。


「……母さん」


 俺の声が、かすれた。


 母は石段の真ん中で立ち止まり、俺を見た。


 その目は、見開かれていた。焦点が合っていない。けれど俺を見ている。口元が小さく震え、何か言おうとしているのがわかる。


「正樹」


 母が言った。


 かすれた、弱々しい声だった。けれど本物の母の声だ。


「来ちゃだめ! その家に、もう入っちゃだめ」


 俺は一歩踏み出した。


「母さん、大丈夫なのか」


「聞いて」


 母は泣きそうな顔で首を振る。


「時間がないの。文蔵さん、鍵は?」


「ある」


 文蔵が短く答える。


「なら急いで。あの子が起きる前に閉めないと」


 あの子。


 その言い方に、文蔵の目が細くなる。


「真紀、お前……覚えとるんか」


「全部じゃない。でも、あの階段のことも、二階の鏡のことも、正樹のことも」


 母の視線が俺へ移る。


「ごめん。ずっと言えなかった」


 俺は言葉を失う。


 母は石段を一段下りた。そこで急に膝が崩れそうになり、文蔵が駆け寄って支える。母は文蔵の腕にしがみつき、息を切らしながら言った。


「正樹は……」


 喉が震える。


「正樹は、私が抱いて出たほうです」


 世界が一瞬、音を失った。


「おばあちゃんじゃない。三つのとき、あの日……仏間で二人になったあと、最初に抱いたのはおばあちゃんだけど、玄関を出る前に、もう一度入れ替わったの」


 母は苦しそうに息を継ぐ。


「私、見たの。二階の鏡に映ってたから。おばあちゃんは気づかなかった。でも私は見てた。だから、外へ連れて出たのは──」


 母の唇が震える。


「どっちか、わからない」


 胸の奥で何かが崩れた。


 文蔵が「真紀」と低く唸る。母は泣きそうに首を振った。


「でも、一つだけ確かなことがある」


 母は俺を見た。


「おまえは、三つのあとで、私のことを“母さん”って呼んだ。好きだった絵本も、寝るときの癖も、熱が出る前に耳を触る癖も、全部同じだった」


「それは……」


「だから私は、見ないことにした。考えないことにした」


 母の目から涙がこぼれる。


「だって、もし違ったとしても、もう私にはおまえだったから」


 返す言葉が出ない。


 怒りたいのに、責めたいのに、母の顔を見るとそれができなかった。母もまた、祖母と同じ場所で止まっていたのだ。見分けられないものを抱き上げて、そのまま何十年も生きてきた。たぶん、俺よりずっと怖かったはずだ。


 だが、そこで終わらなかった。


 母は震える手で、俺の手首を掴んだ。爪が食い込むほど強く。


「でもね」


 母が囁く。


「今、家の中にいるほうは、おまえじゃない」


 心臓が止まりそうになった。


「え……」


「病院に来たの」


 母は早口になった。


「窓の外に、おまえが立ってた。子供のころの顔と、今の顔が重なったみたいな変な顔で、私を見てた。『帰ろう』って言って、手を伸ばしてきた」


「それで……」


「触られた瞬間、わかった。あれは、仏間で残したほう」


 母の唇が引きつる。


「ずっと家の中にいた子。あの子が、今はおまえの顔をしてる」


 頭が追いつかない。


「じゃあ、二階で俺に会ったのは」


「たぶん、そう」


 母が言う。


「でも、もう顔だけじゃない。声も、癖も、思い出も、だいぶ混ざってる。あの子はずっと、おまえの代わりになりたがってたから」


 その瞬間、家の中で何かが大きく鳴った。

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