うしろの間 第20話
今までとは違う。梁が折れるような、腹の底に響く重低音。二階の窓ガラスが一斉に割れ、白い破片が雨みたいに降る。玄関の奥から、ぬるい風が吹き出してきた。塩の輪が、外側からゆっくり崩されていく。
文蔵が母を庇うように後ろへ下げた。
「もう起きたか……!」
「何が!」
俺が叫ぶ。
文蔵は木箱から真鍮の鍵を取り出した。顔色が、今まで見たことがないほど悪い。
「迎え子の核や」
「核?」
「顔真似の親玉や。代々、高槻の家で“外へ出る役”を狙ってきたもんや。真紀のときに出そこねて、お前さんのときに半分だけ外へ出た。せやから、お前さんをずっと追っとった」
母が絞り出すように言う。
「名前は……たしか、帳面に書いてあった。うしろの間の、いちばん古い子」
目を閉じ、何かを思い出すみたいに眉を寄せる。
「“迎え子”じゃなくて、もっと昔の呼び方……」
そのとき、家の奥から、俺の声が響いた。
「正樹」
ぞっとして顔を上げる。
玄関の土間の暗がりに、“俺”が立っていた。
さっきまで二階にいたはずなのに、いつの間にか一階へ降りてきている。しかも今度は、ただの幻みたいな曖昧さがない。日陰に立つ一人の人間として、あまりにも自然にそこにいた。濡れた黒いパーカー、泥のついたスニーカー、少し猫背な立ち方。鏡がなければ、本物の俺と見分けがつかない。
“俺”は石段の上で立ち止まり、母を見た。
「ああ」
と、妙に納得した顔をする。
「やっぱり起きたんだ、母さん」
母の体が震えた。
「その呼び方やめて」
「なんで?」
“俺”は首を傾げる。
「俺もそう呼んでたじゃん」
「やめて!」
母の悲鳴に近い声が、山の空気を裂く。
“俺”は少しだけ傷ついたような顔をした。けれど次の瞬間には、また笑っていた。口角がゆっくり上がる。その笑顔は、俺が楽しいときにする顔とよく似ていた。似ているからこそ、ぞっとする。
「ねえ、そろそろ決めようよ」
“俺”が言う。
「どっちが帰るか」
「ずっと曖昧なままにしてきたから、家がこんなに膨らんじゃったんだろ」
「ばあちゃんも、母さんも、文蔵さんも、誰も決められなかった」
そこで、“俺”は俺をまっすぐ見た。
「でも、おまえは決められるよな?」
喉が鳴る。
「おまえ、自分が本物だって言い切れる?」
返事が出ない。
言い切れない。言いたい。けれど、祖母の手紙を読んだ今、その言葉は喉の奥で引っかかる。三つのとき、二人いた。母ですら、最後の入れ替わりを見失った。じゃあ俺は何を根拠に「自分が自分だ」と言える?
“俺”が一歩、石段を下りる。
「なあ、正樹」
「おまえ、ばあちゃんのことどれくらい覚えてる?」
「最後に会ったの、いつだっけ」
「母さんが入院したとき、ほんとは一度この家の前まで来てるよな?」
「夜中に川の夢を見るとき、いつも最後に誰の手を掴んでる?」
心臓が嫌な打ち方をする。
どれも、俺しか知らないはずの記憶だ。いや、俺ですらはっきり思い出せない断片だ。どうしてこいつが知っている? ……いや、違う。こいつも知っていて当然なのかもしれない。もし本当に、三つのときから“もう一人の俺”として家の中にいたなら。
「やめろ」
俺は掠れた声で言った。
「そうやって揺らすな」
「揺らしてるのはおまえだろ」
“俺”は笑う。
「だって、もうわかってるくせに」
そのとき、文蔵が俺の肩を強く掴んだ。
「聞くな」
低い声だった。
「今ここで決めるな。向こうの土俵や」
文蔵は母を三島に任せ、真鍮の鍵を握ったまま石段を一歩上がる。“俺”と真正面から向き合う形になる。
「お前さん、よう喋るようになったな」
文蔵が吐き捨てる。
「昔は名前呼ぶだけやったくせに」
「だって、もうすぐ外に出られるし」
“俺”が肩をすくめる。
「文蔵さん、鍵持ってるんでしょ。だったら早く閉めようよ」
「閉める前に決めることがある」
「うん。だから言ってるじゃん」
“俺”の目が、すっと細くなる。
「どっちを残すか、って」
文蔵は何かを言い返しかけた。だが、その前に母が小さく呟いた。
「……ヨブコ」
全員の視線が母へ向く。
母は唇を震わせながら、もう一度言った。
「思い出した。帳面にあった名前。迎え子の、もっと古い呼び方」
青ざめた顔で家を見上げる。
「呼ぶ子──ヨブコ」
“俺”の笑みが、ぴたりと止まった。
空気が変わる。山の上を流れていた風が一瞬で死に、蝉の声も、葉擦れも、何もかもが消えた。
母は震えながら続ける。
「最初は、川で死んだ子だったって。水に流されて、見つからなくて、家に帰れなかった子。だから人を呼ぶ。家に入る人、血の繋がった人、帰ってきた子供を呼んで、自分の代わりに残そうとする」
「真紀」
文蔵が制するように言う。
「それ以上は──」
「でも、ヨブコは一人じゃない」
母は“俺”を見たまま言った。
「いちばん最初の子に、あとからいろんな子が重なっていく。死んだ子、返されなかった子、抱き上げられなかった子。そうやって膨らんで、家の下に溜まる」
母の目に涙が溜まる。
「この子は、たぶん……その一番外側」
“俺”の表情が、初めて崩れた。
笑顔でも怒りでもない。ひどく寂しそうな顔だった。
「一番外側、か」
ぽつりと呟く。
「じゃあ、真ん中は誰だろうね」
そう言った瞬間、“俺”の背後の闇が膨らんだ。
玄関の土間いっぱいに黒い水が溢れ、その中から何人もの子供が首を出す。腹の裂けた女がその後ろに立ち、長い髪を揺らしている。家そのものが、口を開けたみたいだった。
“俺”が一歩、黒い水の中へ下がる。
「母さん」
と、そいつは静かに言った。
「次はちゃんと見ててよ」
そのまま、玄関の闇へ溶けるように消えた。
同時に家中の窓が一斉に開き、耳をつんざくような子供の泣き声が山へ響き渡った。
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