うしろの間 第21話
家中の窓が一斉に開いたまま、泣き声だけが山に残っていた。
それは人間の泣き声というより、どこか遠い配管の中を風が抜ける音に似ていた。高く細く、けれど底に重たい濁りがある。耳を塞いでも骨の内側に入り込んでくるような、不快な響きだった。
文蔵が真鍮の鍵を握ったまま、家を睨んでいる。
三島は半ば泣きそうな顔で母──真紀の肩を支えていた。母は病院着の上から薄いカーディガンを羽織らされているだけで、足元は裸足だ。石段に降りたときに擦ったのか、かかとに血が滲んでいる。
「とにかくここ離れる」
文蔵が短く言った。
「このまま門前におったら、引っ張られる」
「でも家は」
俺が言いかけると、文蔵はぴしゃりと遮った。
「今は閉められん。中が起ききっとる。半端に触ったら、こっちが呑まれる」
「じゃあ放っとくんですか」
「放っとくんやない。順番や」
文蔵の声は荒いが、理性だけはぎりぎり保っていた。
「真紀から話を聞く。帳面を読む。どこで何がずれたか確かめる。そうせんと、鍵使うたところで誰かが残るだけや」
誰かが残る。
その言葉が胸に引っかかる。残る、という言い方はつまり──あの家の下に沈む側が出る、ということだ。
母は青い顔のまま、かすかに首を振った。
「病院には……戻れない」
「なんで」
俺が訊くと、母は唇を湿らせ、震える声で言った。
「病院にいたのは、たぶん“見張り”みたいなものだったの。私が起きたら、すぐわかるように」
「見張り?」
「窓の外に、ずっと人が立ってた」
母は視線を地面に落としたまま言う。
「最初は看護師さんかと思った。でも夜になると、三階の病室の窓の外に、同じ男の子が何度も立つの。ありえないでしょ。三階なのに」
三島が小さく息を呑む。
「その子が、毎晩少しずつ顔を変えていった。知らない子の顔から、親戚の子に似て、昔の正樹に似て……最後は今の正樹の顔になった」
母の声が細くなる。
「今夜、目が覚めたら、窓の外にそれがいて……『帰ろう』って」
ぞっとして、山の上の家を見上げた。窓は開いたままだが、さっきまであれだけうるさかった泣き声が、今は嘘みたいに止んでいる。静かすぎる。逆に、何かを待っているみたいだ。
「ここで立ち話してる場合じゃない」
三島が言った。
「文蔵さん、どこ行くんです。真紀さんを休ませないと」
「集会所や」
「集会所?」
「坂の下の自治会館。鍵はわしが持っとる。高槻の家からは少し離れとるし、昔から何かあるときはあそこを使う」
文蔵は俺を見た。
「正樹、お前さんも来い。もう一人で動くなよ」
「……はい」
返事をしたものの、自分の声が妙に遠く感じた。
母の「今、家の中にいるほうはおまえじゃない」という言葉が、まだ耳の奥で鳴っている。だったら俺は何だ。外にいる俺は、本物なのか。あるいは、あっちが“残された側”で、こっちが“連れ出された側”というだけで、どちらも同じくらい曖昧なものなのか。
文蔵が軽トラの後部座席のドアを開け、母を乗せる。三島が助手席へ。俺は荷台に積まれた木箱を抱えて後部座席に滑り込んだ。ドアが閉まる直前、ふと家の玄関が見えた。
暗い土間の奥に、誰かが立っていた。
“俺”だ。
さっきと同じ黒いパーカー姿で、柱に肩を預け、こちらを見ている。表情は見えない。けれど、目が合った気がした瞬間、そいつは口元だけで笑った。
ドアが閉まる。軽トラが発進する。
坂を下るあいだ、誰も口をきかなかった。
ヘッドライトが山道のガードレールをなぞり、闇に沈んだ田んぼや墓地を横切っていく。道は見慣れているはずなのに、今夜は妙に知らない場所みたいに感じた。ミラーに映る山の上は黒く塊になっていて、その中に祖母の家だけがぽつんと沈んでいる。
母は後部座席で浅く呼吸していた。肩が小刻みに震えている。寒いのかと思い、脱いでいた上着を掛けようとしたら、母がびくっと身を引いた。
「あ……ごめん」
「ううん」
母はすぐに首を振ったが、顔色は悪いままだった。
「ちょっと、まだ……びっくりしやすいだけ」
「無理しなくていい」
「うん」
それきり黙る。
言いたいことは山ほどあった。なんで黙っていたのか。祖母の手紙に書いてあったことは本当なのか。俺が三つのとき、何を見たのか。母は自分がどっちなのか知っているのか。
でも、どこから訊けばいいのかわからなかった。
十分ほどで、集会所に着いた。
町内の自治会館なんて、昼間に見ればただの古い公民館だ。コンクリートの平屋で、横に小さな駐車場があり、草むらの向こうに用水路が走っている。けれど夜のそれは、妙に箱みたいに見えた。明かりのない窓が四角く並び、何かを閉じ込めるための建物みたいに。
文蔵が先に降り、シャッターの横の引き戸を開ける。中は畳敷きの広間と、小さな台所、奥に物置があるだけの簡素な造りだった。蛍光灯がつくと、古い畳と洗剤の匂いが広がる。
「こっち座らせろ」
文蔵が広間の隅に座布団を敷く。
母はそこへ座らされるなり、糸が切れたようにうなだれた。三島が慌てて台所から紙コップと水を持ってくる。俺は木箱を畳の上に置き、ようやく一息ついた。
だが、落ち着けるはずもなかった。
広間の真ん中に、祖母の手紙と真鍮の鍵、短刀、塩袋の残り、そして文蔵が仏間から持ち出した帳面が並べられる。それらはどれも、この夜の現実感を嫌というほど補強していた。
「……で」
三島が乾いた声で言う。
「ここから、どうするんですか」
「話を整理する」
文蔵は膝を折って座り、帳面を手元へ引き寄せた。
「家の中で起きとることは、見た目ほど無秩序やない。仕組みがある。順番もある。そこを間違えたら終わりや」
「終わりって」
「正樹が取られるか、真紀が戻されるか、両方か」
あまりにさらりと言うので、一瞬聞き流しかけた。
「……両方って」
「最悪、家ごと開く」
文蔵は淡々としていた。
「そうなったら高槻の家だけの話では済まん。あそこを中心に、呼ばれたもんが増えていく」
三島が顔をしかめる。
「呼ばれたもんって……幽霊とか、そういう」
「もっと雑や。呼ばれたら寄る。寄ったもんが混ざる。混ざったもんがまた呼ぶ。せやから真紀の病室にまで手が伸びた」
「じゃあ病院の人たちも危ないんですか」
「今すぐどうこうやない。けど、真紀があそこに残っとったら、いずれ病室が“家の続き”になったやろな」
想像したくもない。
母が紙コップを両手で包みながら、小さく言った。
「……文蔵さん」
「なんや」
「帳面、見せて」
文蔵は少し迷った顔をした。だが結局、黙って帳面を母の前に差し出す。
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