うしろの間 第22話
母は震える指で表紙を撫でた。祖母の家の地下──仏間の下の部屋で見つけた、あの古い帳面だ。墨が滲んだ表紙には何も書かれていない。中を開くと、癖の強い古い筆字がぎっしり並んでいる。
「……これ、おばあちゃんの字じゃない」
母が呟く。
「もっと前の人の字」
「高槻の先代や」
文蔵が答えた。
「お前さんの曽祖父の母親。要するに、今わかっとる範囲で一番古い記録をつけた人やな」
「どこまで読んだの」
「全部はまだや。仏間で時間なかった」
「じゃあ、私が読めるところだけ読む」
母は一度目を閉じ、息を整えた。
「昔、おばあちゃんに少しだけ見せられたことがあるの。『絶対に誰にも言うな』って」
そう言って、母は帳面をゆっくりめくり始めた。
ページの端は湿気で波打ち、ところどころ墨が滲んで読みにくい。だが母は、迷いながらも一行ずつ追っていく。広間には蛍光灯の低い唸りと、紙の擦れる音だけが響いた。
やがて母が、ある頁で指を止める。
「……ここ」
「何て書いてある」
俺が身を乗り出すと、母は喉を湿らせて読み上げた。
「“水引きの子、六月の終わりに鳴く。家の者の名を覚え、呼ばれたものから顔を借りる。最初は夢、次に鏡、次に水面、最後に戸口”……」
母の声が少し震える。
「“戸口に立ったら、もう半分は家の内である。返すなら、名を呼ばれる前に返せ。返せぬなら、片方を選べ”」
広間の空気が重くなる。
「片方って、やっぱり……」
三島が言い淀む。
「二人になった片方、ってことですか」
「そうやろな」
文蔵が答えた。
「昔は今より露骨やったんやろ。鏡や水面を介して、家の者を引きずり込んで、そっくりのもんを返す」
「返すって」
「向こうから見れば“返す”なんやろ」
文蔵は苦々しく言った。
「家に欲しいのは血筋や記憶やない。外で生きるための“席”や。親、子、戸籍、学校、仕事、そういうもん全部ひっくるめた席や。せやから、片方を外へ出して、片方を残す」
俺は言葉を失った。
席。
人生そのものを、そんなふうに呼ばれると気分が悪くなる。けれど妙に腑に落ちてもいた。あの家の中の“俺”が欲しがっていたのは、たぶん俺の命そのものというより、俺として生きてきた二十数年分の場所なのだ。
母が次の頁をめくる。
「“ただし、顔を借りた子は一度では馴染まぬ。外へ出ても、川の夢を見、水に呼ばれ、鏡に映り、元の家へ帰りたがる”」
母が目を伏せる。
「……これ、正樹のことだ」
「いや、俺だけじゃなくて母さんもだろ」
思わず言うと、母は小さく肩を震わせた。
「そう。たぶん私も」
その言葉を聞いて、広間の空気が少しだけ変わる。俺だけが曖昧なんじゃない。母もまた、同じ穴の上に立っている。
「続き読む」
母は自分に言い聞かせるみたいに呟き、さらに頁を進めた。
「“二つとなった子を見分ける法、確かなものなし。足の泥、爪の色、呼び声の濁り、夜の熱、鏡の曇り方、どれも当てにならぬ。抱きしめたときに冷たい方を返せという者もおるが、泣けば同じく温もる”」
母が息を止める。
「……ひどい」
「つまり、昔から見分けられなかったってことか」
俺が言うと、文蔵が頷く。
「せや。これが一番たち悪い。明らかな化け物なら切り捨てられる。けど高槻の家のは違う。ほとんど同じに見えるし、育てればなおさら同じになる」
「じゃあ、何を頼りにするんです」
「せやから皆、見ないことにしたんや」
文蔵の声は乾いていた。
「見分けられんもんを、見分けられると思わんほうが楽やからな」
母がゆっくり顔を上げた。
「文蔵さんは、最初から知ってたの」
「全部やない」
「でも、私のことも、正樹のことも疑ってた」
「疑っとった、というより、可能性として見とった」
「なんで何も言わなかったの」
母の声に、少しだけ怒気が混ざる。
「おばあちゃんだけじゃなく、文蔵さんまで黙ってたんだ」
「言うてどうなる」
文蔵の返しは冷たかった。
「十の子に『お前、本物ちゃうかもしれんぞ』と言うんか。三つの子に『お前、入れ替わっとるかもしれん』と言うんか。そんなことして何が守れる」
「でも……」
「守れんかったのは事実や」
文蔵はそこで初めて、少しだけ目を伏せた。
「それは認める」
蛍光灯の光が母の横顔を白く照らしている。病院から抜け出してきたばかりのせいか、頬はこけ、目の下に濃い隈ができていた。こんな顔の母を見るのは初めてかもしれない。
俺はずっと気になっていたことを、ようやく口にした。
「母さん」
「……なに」
「母さんは、自分がどっちか知ってるのか」
広間が静まり返る。
三島まで息を止めたのがわかった。母はしばらく何も言わなかった。紙コップの縁を見つめ、指先でそこをなぞっている。答えたくないのか、答えられないのか、どちらかすらわからない。
やがて、母はぽつりと口を開いた。
「知ってる、とは言えない」
その言い方が、逆に何かを含んでいた。
「でも、十歳のときに“向こう”へ落ちたときのことは少し覚えてる」
「……どんな」
喉が乾く。
母は目を閉じた。
「真っ暗じゃなかった」
ゆっくり、確かめるように言葉を選ぶ。
「もっと湿ってて、狭くて、家の中の音が全部遠くから響いてくる感じ。井戸の底にいるみたいな場所だった。壁が土で、でもところどころ木の柱が通ってて、上を人が歩くと軋む音がするの」
祖母の家の下の、あの部屋が頭に浮かぶ。
「そこに、子供がたくさんいた」
母の声がかすれた。
「顔はよく見えないのに、みんなこっちを見てるのはわかる。泣いてる子もいたし、笑ってる子もいた。で、その中に、一人だけ……私にそっくりの子がいた」
背筋が冷える。
「その子は泣いてなかった」
母は続ける。
「すごく静かで、でも、私が怖がってるのを見て嬉しそうだった。『ここ、おまえの部屋になるよ』って言ったの。『私は先に上に行くから』って」
「上に?」
「たぶん、家の中」
母が頷く。
「それで私は嫌だって泣いて、逃げようとして……次の記憶は、祖母に抱かれて熱を出してるところ」
俺は息を吸うのも忘れていた。
「そのとき、自分が戻ったって思った?」
「思いたかった」
母は苦笑にもならない表情をした。
「でも、熱が下がったあと、鏡に映る自分を見て、変だと思った。顔は私なのに、ほんの少しだけ“向こう”の匂いが残ってる気がして」
「匂い?」
「説明しにくいけど……湿った土と、川底の藻みたいな匂い」
母は自分の両腕を抱く。
「それが、自分からしてる気がした」
広間の空気がさらに冷えた気がした。
「じゃあ母さんも」
俺は言いかけて、最後まで言えなかった。
おまえも、もしかしたら──その続きは、母に向かってあまりに残酷だった。
けれど母は、ちゃんと聞き取ったらしい。静かに頷いた。
「うん。私も、たぶんずっと疑ってる」
「……」
「でも、だからこそ、正樹を見て見ぬふりした」
母の目が潤む。
「もし私が“戻ってきた側”じゃなかったら、正樹に何か言う資格なんてないと思ったから」
「そんなの」
俺は言葉に詰まる。
「そんなの、関係ないだろ」
「あるよ」
母はきっぱり言った。
「ある。だって、もし私があのとき入れ替わったほうで、それでも普通に生きて、結婚して、おまえを産んで、おまえを育てたなら──」
そこで声が震えた。
「“本物じゃないものでも、本物みたいに生きられる”ってことになるでしょう」
その一言が、妙に重く落ちた。
本物じゃないものでも、本物みたいに生きられる。
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