うしろの間 第23話
それは慰めみたいでもあり、呪いみたいでもあった。もしそうなら、俺がどっちかなんて、本当に意味がなくなる。けれど、あの家はそこを曖昧なままにしてはくれない。外にいるのが誰か、内に残るのが誰か、決めろと迫ってくる。
「……違う」
三島が小さく言った。
全員がそちらを見る。三島は自分でも口に出すつもりがなかったのか、少し慌てた顔をしたが、それでも続けた。
「すみません、俺、部外者みたいなもんですけど……なんか、それ、違うと思います」
「何がや」
文蔵が訊く。
三島は唇を舐め、言葉を探した。
「たとえば真紀さんがどっちだったとしても、正樹さんから見たら真紀さんは真紀さんじゃないですか。で、正樹さんがどっちだったとしても、今ここにいる正樹さんは、少なくとも俺が知ってる正樹さんですよね」
「……三島」
「いや、もちろん、家のほうがそういう理屈で動かないのはわかるんですけど」
三島は困ったように頭を掻く。
「でも、家が勝手に“席”とか“本物”とか決めてくるからって、こっちまでそれに従う必要あるんですか」
広間が静かになった。
文蔵は三島を見たまま、しばらく何も言わなかった。やがて鼻で息を抜く。
「青いな」
「自覚はあります」
「けど、半分は当たっとる」
文蔵は帳面を指で叩いた。
「高槻の家が欲しがっとるのは“血筋の本物”やない。“外へ出る役”や。せやから、正樹がどっちかを決めるいうても、厳密な生物学の話やない」
「じゃあ何なんです」
俺が訊く。
文蔵は、しばらく考えるように目を細めた。
「家の理屈で言えば、どっちが“外の席”を持つかや」
「席……」
「戸籍、記憶、人間関係、名前、そういうもん全部含めて“正樹”という場所やな。向こうはそこに座りたい。お前さんを消してでもな」
「じゃあ閉じるには」
「その席の持ち主を固定せなあかん」
文蔵は真鍮の鍵を見た。
「曖昧なまま鍵を使うと、家は都合のええほうを“外側”にする。つまり、ヨブコが勝つ可能性が高い」
背中に冷たい汗が流れた。
「固定って、どうやって」
「まだそこが足りん」
文蔵は帳面を俺の前に押し出した。
「真紀、続きを読め。たぶん閉じ方がどこかに書いてある」
母は少し躊躇ったが、また頁をめくった。
古い紙がぱり、と鳴る。何十年、あるいは百年単位で閉じられてきた文字が、今ようやく夜の空気に晒されていく。
「……ここ、たぶん」
母が指差したのは、頁の下半分に細かく書き込まれた箇所だった。
「“呼ぶ子、戸を越えるときは、必ず二つの声を持つ。一つは家に残る声、一つは外で呼ばれた声。ゆえに閉じる者は、外の名を与え直し、内の名を返さねばならぬ”」
「名を与え直す?」
三島が首を傾げる。
「どういう意味ですか」
「続き読む」
文蔵が促す。
母は息を整えて続けた。
「“外に立つ子へ、外で積んだものを数えさせよ。誰に抱かれ、誰に叱られ、何を失い、何を欲したか、己の口で語らせよ。それが外の名を結ぶ。内に残る子へは、家の下で得た名を返せ。呼ぶ子、返された名を拒めぬ”」
広間に沈黙が落ちる。
意味を理解するのに数秒かかった。
「……つまり」
俺が言う。
「俺に、俺の人生を喋らせるってことか」
「たぶんな」
文蔵が頷く。
「誰に育てられ、何を覚え、何を選んできたか。そういう“外で積んだもん”を、自分の口で確かめる。家が欲しがっとるのは席やからな。その席が既に埋まっとると示す必要がある」
「じゃあ“内に残る子へ名を返す”って?」
「そっちは厄介や」
文蔵の顔が曇る。
「ヨブコがもともと何と呼ばれとったか、どの子の名を核にしとるか、それを突き止めて返さなあかん」
「そんなの、わかるんですか」
「帳面にあるかもしれんし、真紀が見た“向こう”の記憶にあるかもしれん」
文蔵は母を見る。
「真紀、思い出せるか」
「……わからない」
母は苦しそうに眉を寄せる。
「でも、あの子が言ってたことなら少し……」
「何て」
「十歳のとき、向こうで会った“私に似た子”がね」
母は遠くを見るような目になった。
「『ここ、おまえの部屋になる』って言ったあと、もう一つ何か言ったの。“あの子が帰れなかったから、次はおまえが入るんだよ”って」
「あの子?」
「誰のことかはわからない。でも、そのとき奥のほうで、ずっと水の音がしてた。井戸じゃなくて、もっと広い……川みたいな音」
文蔵の表情が変わる。
「川、か」
「何かわかるんですか」
俺が訊くと、文蔵はすぐには答えなかった。代わりに、帳面の別の頁をばらばらとめくる。指が止まったところを睨み、低く舌打ちした。
「やっぱりや」
「何が」
「高槻の家のヨブコは、仏間の下だけやない」
文蔵は頁を俺たちへ向けた。
「元は川や。家が先にあったんやなくて、川で消えた子を家が拾うようになった。せやから“迎え子”やなく“呼ぶ子”なんや」
「川で消えた子……」
「昔、この辺は今より川幅が広かった。増水でよう人が流されたらしい。見つからん子もおった。葬式もできん。墓もない。そういうもんを、家が引き受ける役目やったんやろ」
「引き受けるって」
「祀る、鎮める、閉じる。最初はたぶんそういうつもりやった」
文蔵は吐き捨てるように言う。
「けど長いことやっとるうちに、家のほうが喰われた」
母が帳面の端を握りしめる。
「……おばあちゃん、知ってたんだ」
「知っとったやろうな」
「じゃあなんで」
「家を潰せんかったからや」
文蔵の声は重い。
「潰したところで終わらん。下が残る。川が残る。下手に壊したら、今度は囲いがなくなる」
頭が痛くなってくる。
家は檻で、同時に餌場でもある。閉じ込めるために守ってきたのに、そのせいで中身が育った──そんな話に聞こえた。
母が急に肩を震わせた。
「……ごめん」
「どうした」
「思い出したくないところまで、戻ってきてる」
母の声が細い。
「病院で起きたとき、窓の外にいた“正樹”が言ったの。『母さんは二回間違えたよね』って」
俺の喉がひゅっと鳴る。
「二回……」
「一回目は、自分が十歳のとき。二回目は、おまえが三歳のとき」
母は俺を見られずにいた。
「だから私は、あの子に言い返せなかった。もし本当に間違えてたらって思ったら」
その場の誰も、すぐには口を開けなかった。
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