うしろの間 第24話
結局、家が突きつけてくるのはそこなのだ。血でも魂でもなく、「お前はあのとき選び損ねた」という一点。祖母にも母にも、それが一番効く。だから黙る。だから見ない。だから家が増長する。
文蔵が帳面を閉じた。
「方針は見えた」
「方針?」
「家に戻る前に、二つ要る」
文蔵は指を二本立てる。
「一つ、正樹の“外の名”を固めること。つまり、正樹自身が自分の積み上げてきたもんを言葉にする」
「……そんなので本当に」
「信じるしかない」
文蔵はばっさり言う。
「もう一つ、ヨブコの核の名を見つけること。これがないと、鍵を回しても閉じ切れん」
「核の名って、結局どう探すんです」
三島が訊く。
文蔵は少しだけ嫌そうな顔をした。
「高槻の家の裏手に、古い川の跡がある」
その一言で、嫌な予感が全身を走る。
「今は埋め立てられて細い水路みたいになっとるが、昔の流れがまだ残っとる場所や。あそこに、家の下へ繋がる“口”があるはずや」
「……まさか」
「せや」
文蔵は俺を見る。
「次はそこへ行く」
思わず声が荒くなった。
「今から?」
「今夜のうちや」
「ふざけんな、あの家の近くに戻るのかよ」
「家そのものに入るよりはましや」
文蔵は真顔だった。
「ヨブコは今、家の中で膨らんどる。なら核は動きにくい。裏の口を探るなら今しかない」
母が小さく首を振る。
「でも、正樹を連れて行くのは……」
「連れて行く」
文蔵は即答した。
「正樹を狙っとる以上、離しても意味がない。それに、正樹がおらんと向こうが反応せん可能性がある」
「囮ってことですか」
三島が顔をしかめる。
「結果的にはな」
「最悪すぎるだろ」
俺の口から、乾いた笑いみたいなものが漏れた。
囮。外の席を奪われかけている当人が、さらに囮まで兼ねるらしい。笑うしかない。
だが文蔵は、そんな俺を真っ直ぐ見た。
「正樹」
「……何ですか」
「お前さんに一つだけ、今ここで決めてもらわなあかん」
「何を」
「もし家の中で“もう一人のお前”と向き合ったとき、自分が何をもって自分やと言うかや」
「……」
「本物かどうかは、たぶん最後までわからん」
文蔵の声は静かだった。
「けど、“どっちが外で生きてきた正樹か”は決められる。決めな、向こうに飲まれる」
母が不安そうに俺を見る。
三島も何も言わない。
広間の真ん中に置かれた真鍮の鍵だけが、蛍光灯の下で鈍く光っていた。
俺は膝の上で手を握る。指先が冷たい。自分の人生を、自分で言葉にして、自分の席を守る。理屈としてはわかる。けれど、もし向こうも同じ記憶を持っていたら? 同じように母のことを知り、祖母のことを覚え、俺の失敗も後悔も知っていたら?
その問いが顔に出ていたのか、母がかすれた声で言った。
「全部同じじゃないはず」
「え?」
「病院で見た“あの子”、正樹の顔をしてたけど……少しだけ、言い方が違った」
「言い方?」
「私のことを“母さん”って呼ぶ間が、ほんの少しだけ変だった。昔の正樹は、怖いときほど早口になるのに、あの子は落ち着きすぎてた」
母は必死に記憶を辿るように眉を寄せる。
「あと、手を伸ばしてくるとき、左手からだった」
「左手?」
「正樹、昔から右利きでしょ」
「……そうだけど」
「でも、あの子は左で窓を叩いた」
心臓が一拍、強く跳ねる。
二階の窓の手形。あれは確かに、中央の手形が俺と同じ大きさだった。だが、どっちの手だったかまでは見ていない。
「混ざっとるんやろうな」
文蔵が低く言う。
「完全な複製やない。外の正樹を真似て、寄せて、でも細部がまだ歪んどる」
「じゃあ、そこを突けば」
「揺らせるかもしれん」
文蔵が頷く。
「ヨブコは“席”を欲しがるが、席そのものにはなりきれん。どっかに綻びがあるはずや」
そのときだった。
台所のほうで、かたんと音がした。
全員の顔がそちらを向く。
さっき三島が置いた紙コップが、一つだけ床に転がっている。誰も触っていない。窓は閉まっている。風もない。
文蔵がすっと立ち上がった。
「動くな」
低い声で制し、台所へ近づく。俺も思わず腰を浮かせたが、母が俺の袖を掴んだ。驚くほど冷たい手だった。
文蔵が流し台の前まで行き、辺りを見回す。何もない。冷蔵庫もない簡素な台所で、あるのは棚と流しと小さな換気扇だけだ。
だが、次の瞬間。
換気扇が、止まっているはずなのにくるりと一回転した。
三島が悲鳴を飲み込む。
換気扇の隙間から、水が一滴、落ちた。
ぽたり。
白い床に、黒ずんだ水の染みが広がる。
「……来とる」
文蔵の声が変わった。
「何が」
俺が立ち上がる。
文蔵は振り返らずに言った。
「家のほうやない。もっと近い」
「近いって」
「ここまで匂いをつけてきよる。真紀にくっついて来たか、正樹に来たか──」
言い終わる前に、広間の襖の向こうから、子供の声がした。
「まさき」
全身の毛穴が開く。
その声は、間違いなく家の中で聞いた幼い俺の声だった。
襖一枚向こう。すぐそこだ。
「開けるな!」
文蔵が怒鳴る。
だが、襖の向こうからは、続けてもう一つ声がした。
「おかあさん、いる?」
今度は、俺じゃない。
女の子の声だった。
母が凍りついたように顔を上げる。
「……違う」
母の唇が震える。
「今の声……」
広間の空気が張りつめる。
襖の向こうで、ぺた、ぺた、と濡れた足音が止まった。
そして、ひどく小さな声で、誰かが言った。
「ただいま」
母の顔から血の気が消えた。
紙コップが、母の手から滑り落ちる。
「……あの声」
母が、ほとんど息だけで呟く。
「私の妹の声だ」
俺は言葉を失った。
「妹……?」
「私が生まれる前に、流れた子」
母は襖を見つめたまま、青ざめた顔で言う。
「名前もつけられなかったはずの、姉さんの声」
襖の向こうで、子供がくすりと笑った。
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