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ホラー短編集  作者: 倉木元貴


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うしろの間 第25話

 自治会館の窓を叩く雨は、いつの間にか止んでいた。なのに、屋根を打つような音だけが続いている。


 ……ぱた。

 ぱた。

 ぱた。


 規則正しく。誰かが濡れた足で歩いているような音だった。


「……聞こえるか?」


 三島が小声で言った。俺は黙ってうなずく。

 会館の中は十人ほど避難している。老人。子ども。消防団。

 皆、息を潜めている。誰もその音について口にしない。認めたくないのだ。

 音が、屋根の上ではなく——廊下を歩いているものだと。


 ぱた。

 ぱた。

 ぱた。


 文蔵が立ち上がる。


「電気を消せ」


 自治会長が驚く。


「な、なんでだ」


「急げ」


 その声には逆らえない重さがあった。

 蛍光灯が落とされる。非常灯だけが赤く光った。途端に会館の広さが何倍にも感じられる。

 誰かがすすり泣いた。子どもを抱く母親だ。


「ねえ、お母さん」


 小さな声。


「誰か来たよ」


 全員が固まる。

 玄関ではない。裏口でもない。声は廊下の奥。暗闇から聞こえた。


「正樹」


 俺は肩を震わせた。母さんも顔色を変える。


「返事するな!」


 文蔵が怒鳴った。俺は無意識に口を押さえる。知っている。返事をしたら近付ける。祖母の日記にもあった。名前を返してはいけない、と。しかし声は続く。


「正樹」


 今度は母さんの声だった。


 ……違う。


 母さんは俺の隣にいる。なのに、廊下の向こうからも聞こえる。


「正樹」


 同じ声。同じ調子。同じ息遣い。

 三島が青ざめる。


「お、おばさん……」


「違う」


 母さんは震えながら首を振った。


「あれは私じゃない」


 ぱた。

 ぱた。


 足音が止まる。すぐ向こうだ。襖一枚隔てた先。誰も息をしない。そのとき。


 コン。


 襖が鳴った。一度だけ。小さく。


 コン。


 また。今度は少し強く。


 コン。

 コン。

 コン。


 一定の間隔。中に入れてくれ、とでも言うように。消防団の若い男が耐えきれず立ち上がった。


「誰だ!」


 文蔵が腕をつかむ。


「開けるな!」


「でも誰かいる!」


「人じゃない」


 男は振り払う。


「そんなわけあるか!」


 襖に手を掛ける。俺は止めようとした。間に合わない。


 ——ガラッ。


 襖が開く。廊下には誰もいなかった。


 いや。誰も……。


「……」


 違う。廊下の一番奥。非常灯の赤い光の境目。立っている。小さな影。子どもだ。七つか八つ。着物を着て裸足で立っていた。髪が濡れて顔に張り付いている。俯いているせいで顔は見えない。

 男が息を吐く。


「なんだ……子どもじゃないか。」


 その瞬間だった。子どもの首だけが。ぐるりと百八十度回った。体はそのまま。首だけ。こちらを向く。顔が見えたが目がない。

 あるべき場所に、黒い水が溜まっている。

 口だけが笑っていた。


「見つけた」


 全員の悲鳴が重なった。照明が一斉に明滅する。消える。点く。消える。点く。そのたびに子どもとの距離が縮まっていた。

 廊下の奥。廊下の半分。襖の前。目の前。最後に明かりが戻ったとき。そこには何もなかった。ただ、床だけが濡れていた。

 川の泥の匂いが、ゆっくりと部屋いっぱいに広がっていった。


 誰も動けなかった。


 床に残った濡れた足跡だけが、赤い非常灯に照らされている。


 小さい子どもの足だ。


 それが部屋の入口まで来て、そこで途切れていた。


「……消えたのか」


 三島が震える声でつぶやく。

 文蔵は首を横に振った。


「違う」


 その一言で空気が凍る。


「消えたんじゃない」


 文蔵は部屋を見回した。


「中へ入った」


 誰かが悲鳴を上げた。全員が互いの顔を見回す。誰の中へ。誰の後ろへ。そんな考えが、一斉に頭をよぎった。

 文蔵は静かに言う。


「誰も一人になるな! 鏡を見るな! 名前を呼び合うな! 今から外へ出る者は二人以上で動け!」


 消防団の男が息を切らしながら尋ねた。


「どういうことなんだ。さっきの子どもは何なんだ」


 文蔵はすぐには答えなかった。

 床の泥を見つめたまま、小さく息を吐く。


「……あれは顔を探している」


「顔?」


「あいつらは、自分では外を歩けん。だから借りる」


 誰も口を開かなかった。


「名前を借り、顔を借り、人生を借りる」


 その言葉を聞いて、母さんの肩が震えた。

 俺は思わず母さんを見る。目が合った。その表情には、恐怖だけではない何かが浮かんでいた。


 思い出したくない記憶。

 それを必死に押さえ込むような顔だった。


「母さん」


 呼びかけると、母さんはゆっくりと視線を逸らした。


「昔も……いたの」


 かすれた声だった。


「病院で」


 全員が母さんを見る。


「私を呼ぶ子がいた」


 部屋が静まり返る。


「私と同じ顔で」


 三島が息をのむ。


「同じ服を着て、同じ泣き方をして、でも」


 母さんはそこで唇を噛んだ。


「笑い方だけが違った」


 文蔵は目を閉じた。


「覚えておったか」


「忘れたことなんてない」


 母さんはそう言うと、震える手を握り締めた。


「だから逃げたの。逃げたから……今の私がいる」


 その言葉が胸に刺さる。

 今の私。その言い方に、自分でも気付いたのだろう。

 母さんは黙り込んだ。まるで、「本当の私」という言葉を飲み込んだように。


 その時だった。廊下の奥から、カラン、と乾いた音が響く。湯飲みが転がるような、小さな音。

 全員の視線が廊下へ向く。

 誰もいない。だが音だけが近づいてくる。


 カラン。

 カラン。

 カラン。


 床を転がる何かが、見えないまま近付いてくる。

 三島が小さくつぶやく。


「見えない……」


 音は部屋の前で止まった。

 耳鳴りだけが残る。そして、部屋の隅に置かれた姿見が、ゆっくりと震え始めた。誰も触れていないのに、鏡面が水面のように揺れる。

 波紋が広がり、その中に、人影が映った。部屋にはいないはずの人物。濡れた服を着た男が俯いたまま立っている。


 俺は息を止めた。

 鏡の中の男が、ゆっくりと顔を上げる。


 その顔は──俺だった。

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