うしろの間 第26話
鏡の中の俺は、何も言わなかった。ただ、じっとこちらを見ている。その目には感情がない。怒りも悲しみもない。
まるで、誰かの顔を借りたまま使い方を覚えている最中のような、不自然な静けさだった。
「見るな!」
文蔵の怒声が飛ぶ。
俺は反射的に目を逸らした。だが、遅かった。鏡の中の俺が口を開く。
「……正樹」
自分の声だった。耳元で囁かれたように近い。
「こっちへ来い」
胸が締め付けられる。
一歩。足が勝手に前へ出た。
「正樹!」
三島が腕をつかむ。その衝撃で我に返る。俺は鏡から視線を外し、大きく息を吸った。
「大丈夫か!」
「あ……ああ」
返事をした瞬間、文蔵が険しい顔になる。
「今、誰に返事をした」
「え……?」
「三島か。それとも鏡か」
言われて背筋が冷えた。
分からない。確かに三島に返事をしたつもりだった。だが、一瞬だけ、自分の声と鏡の声が重なって聞こえた。もし、あれが俺を呼んだ声だったら。
文蔵は苦々しく唇を噛んだ。
「まだ大丈夫じゃ。じゃが、これからは気を付けろ。あいつらは呼ぶ相手を選ばん。返事をした事実だけで近付いてくる」
部屋の空気が重く沈む。
そのとき、鏡が小さく軋んだ。
ギィ……
誰も触れていない。鏡面の波紋が止まり、映像も消えている。それなのに、鏡だけがゆっくりとこちらへ向きを変え始めた。
「動いてる……」
誰かが呟いた。床に固定された姿見が、ほんの少しずつ回転していく。まるで、部屋の誰かを探しているように。
そして、ぴたりと止まった。鏡が向いていたのは、母さんだった。真紀は青ざめ、後ずさる。
「いや……」
鏡の中には、母さんが映っている。そのはずだった。だが違う。鏡の中の母さんは、一歩遅れて動いた。現実の母さんが後ずさる。鏡の中は動かない。一拍遅れて、ゆっくり後ろへ下がる。
三島が震えた声を漏らす。
「ずれてる……」
鏡の中の母さんが、ゆっくり笑う。現実の母さんは笑っていない。それでも鏡だけが口角を吊り上げる。そして唇だけを動かした。
『帰っておいで』
声は聞こえない。だが、何と言ったのかだけは全員に分かった。
母さんは耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込む。
「違う……私は帰らない。もう帰らない……!」
その叫びと同時に、鏡が激しくひび割れた。
バキッ!
乾いた音が部屋中に響く。蜘蛛の巣のような亀裂が一瞬で広がる。
誰も動けない。
次の瞬間、割れた鏡の奥から、水が一滴、床へ落ちた。
ぽたん。
それは透明な水ではなかった。黒く濁り、泥の匂いをまとった水だった。
ぽたん。
ぽたん。
ぽたん。
ひび割れの数だけ、水滴が落ち始める。会館の床に黒い染みがゆっくりと広がっていく。その染みは、まるで意思を持つように這い始めた。人の足元を避けながら、部屋の出口へ向かう。
いや──違う。出口ではない。
染みが目指していたのは、壁に掛けられた古い町の地図だった。黒い水は地図の一点で止まり、じわりと滲んでいく。そこだけが、昔は青く塗られていた場所だった。
文蔵の顔から血の気が引く。
「……やはりか」
老人は震える指で、その場所を指した。
「奴は、川へ戻れと言うておる」
部屋中の視線が、壁の地図へ集まった。黒い染みは、ゆっくりと広がる。まるで川の形をなぞるように。今は道路になっている場所を、住宅街になった場所を、まるで見えない水が、昔の流れを思い出しているようだった。
「ここは……」
三島が地図に近づく。
「県道だろ」
「昔から道路じゃないのか」
文蔵は静かに首を振った。
「いや。ここは川じゃった」
部屋が静まり返る。
文蔵の指先が、黒く滲んだ場所をなぞる。
「子どもの頃は、まだ橋が残っとった。浅い川じゃったが、流れは速かった。雨が降れば何人も流された……その中に、名前を呼ばれなくなった子らがおった」
母さんがゆっくり顔を上げる。
「呼ばれなくなった……」
「事故のあとじゃ」
文蔵は遠くを見るような目になった。
「最初は皆、毎日のように名前を呼んだ。探して。泣いて。帰って来いと叫んだ。じゃが月日は経つ。一年。二年。十年。親も老いる。家も絶える。呼ぶ者がおらんようになる」
誰も言葉を挟めなかった。
「名前は、人がおるから残る。誰にも呼ばれん名は、やがて消える」
その言葉が胸に重く沈む。祖母の日記にも似た一節があった。名前は、生きている者が繋ぐもの。呼ぶ声が絶えた時、人は二度死ぬ──。
「だから高槻の家が預かった」
文蔵が続ける。
「位牌もない子。墓もない子。誰にも思い出されん子らの名をな」
三島が息を飲む。
「供養のために……」
「そうじゃ」
文蔵は頷く。
「最初は、それで良かった」
その言葉だけが重かった。最初は。つまり、どこかで何かが変わった。
「何があったんだ」
俺が尋ねる。が、文蔵は答えない。代わりに地図を見つめたまま、小さく呟く。
「欲が出た者がおった」
「欲?」
「子を亡くした親じゃ」
その声は苦しそうだった。
「名を預けるだけでは足りんと言うた。名前が残るなら。帰って来るはずだ、と」
嫌な沈黙が流れる。誰も続きを聞きたくなかった。それでも、聞かなければならない。
「呼んだのか」
文蔵は目を閉じた。
「毎晩。川へ向かって。我が子の名を。帰って来い。帰って来い、と」
窓の外で風が鳴った。いや。風ではない。誰かが遠くで呼んでいる。子どもの声。男の声。女の声。いくつもの声が重なり、言葉にならない囁きとなって夜を漂う。
会館の誰もが、それを聞いていた。
「……始まった」
文蔵が低く言う。
「何が」
「呼び返しじゃ」
その瞬間、館内放送用の古びたスピーカーから、ザーッという激しい雑音が流れた。全員が天井を見上げる。電源は落ちているはずだった。
ザーッ……。
ザーッ……。
雑音の奥で、誰かが息を吸う音がした。そして、幼い声が響く。
『お母さん』
部屋の隅にいた女性が肩を震わせた。亡くした息子の声だったのかもしれない。彼女は立ち上がろうとする。
「違う!」
文蔵が叫ぶ。
「行くな!」
しかし、その声は届かない。スピーカーから再び声が流れる。
『お母さん』
『ここだよ』
『寒いよ』
女性の頬を涙が伝う。
「健太……?」
その名前を口にした瞬間、雑音が止んだ。会館全体が、不気味な静寂に包まれる。次の瞬間、建物の外から、何十人もの子どもが一斉に笑う声が響いた。
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