うしろの間 第27話
笑い声は、すぐに止んだ。まるで合図だったかのように。その静けさの方が、かえって恐ろしい。誰も口を開かない。女性はその場に立ち尽くしたまま、涙を流している。
「……健太」
もう一度、小さくつぶやく。
文蔵がゆっくり近付き、その肩に手を置いた。
「その子は来とらん」
「でも、あの声は……」
「知っとる声を使う。知っとる顔を使う。だから騙される」
女性は崩れるように座り込んだ。
その様子を見ていた消防団の年配の男が低く言った。
「じゃあ、どうすりゃいい。家族の声も信じられんのか」
文蔵はしばらく黙っていた。
「……信じるな、ではない。確かめろ。必ず、自分の目で」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸に小さな違和感が生まれた。
自分の目で、本当にそれでいいのか。鏡にも、水にも映る怪異なのに、目が一番信用できないんじゃないのか。その考えが頭をよぎった時だった。
ガタン。
二階から音がした。全員が天井を見上げる。
「この会館……二階なんてあったか?」
三島がつぶやく。
自治会長の顔色が変わる。
「ない」
「平屋だ」
誰も動かない。
もう一度。
ガタン。
ギィ……。
重い家具を引きずるような音。天井の真上を、何かが歩いている。
ミシ。
ミシ。
古い木材が軋む。あり得ない。二階はない。なのに、真上から足音が聞こえる。子どもの足音ではない。大人だ。ゆっくりと歩いている。部屋の端から端へ。そして、止まった。
ちょうど俺の真上で。
見えない視線が、天井越しに俺を見下ろしている。そんな感覚だった。
「……正樹」
三島が小声で呼ぶ。
「上、見んな」
言われるまでもなかった。
見たくない。だが、人間は恐怖の中心を見たくなる。俺はゆっくりと顔を上げてしまった。
天井板。古い木目。染み。何もない。そう思った。だが、染みが増えている。雨漏りではない。丸い黒い染みが、一つ、また一つと広がっていく。
ぽた。
水滴が俺の頬に落ちた。冷たい。思わず手で拭うと指先が黒く汚れた。泥だった。
「下がれ!」
文蔵が俺を突き飛ばす。
その瞬間。
バキィッ!
天井板が割れて、黒い水が滝のように降り注ぐ。
悲鳴が上がり、皆が壁際へ逃げる。割れた穴の向こうは、暗闇だった。
二階などない。あるはずがない。それなのに、穴の向こうから、何本もの白い足がぶら下がっていた。
子どもの足。十本。二十本。三十本。裸足のまま、ぶらぶらと揺れている。上半身は見えない。足だけが、穴から垂れ下がっている。
誰かが嗚咽した。次の瞬間、その足が一斉に、床へ向かって伸び始めた。
誰かが叫んだ。
「逃げろ!」
その声で、部屋の中が一気に崩れた。
悲鳴。走る足音。椅子が倒れる音。誰もが出口へ殺到する。
「走るな!」
文蔵の怒鳴り声も、人々の恐怖には届かない。天井から伸びる無数の足は、床に触れる寸前で止まっていた。まるで何かを待っているように。
「正樹!」
三島が俺の腕をつかむ。
「行くぞ!」
俺たちは母さんを挟み、部屋を飛び出した。廊下は薄暗い。非常灯だけが赤く灯り、濡れた床を鈍く照らしている。さっきまで乾いていた床に、水たまりができていた。しかも、水は廊下の奥から流れてきている。
「会館の中なのに……」
三島が息をのむ。水は静かに流れている。だが、耳を澄ますと聞こえた。さらさら、と。川の流れる音が。
「耳を貸すな」
文蔵が後ろから言う。
「あの音は呼ぶための音じゃ」
その瞬間だった。廊下の突き当たりで、人影が動いた。消防団の若い男だった。さっき襖を開けた男だ。壁に向かって立っている。
「おい!」
三島が声を掛けるが男は振り向かない。肩が小さく上下している。笑っているのか。泣いているのか。分からない。
「おい、聞こえてるか!」
俺が近付こうとすると、文蔵が胸元を押さえた。
「近寄るな」
「でも」
「あれを見ろ」
男の足元。流れていた水が、男の足だけを避けていた。いや。避けているのではない。足首へ巻き付いていた。黒い水が、生き物のように絡み付き、少しずつふくらはぎを這い上がっている。男は壁を見つめたまま、小さく笑った。
「帰ってきた」
その声は、さっきまでの彼の声ではなかった。幼い。十歳にも満たない子どもの声。
「やっと見つけてくれた」
男の首がゆっくりとこちらへ回る。骨の軋む音がした。顔は男のままだ。だが、目だけが違う。黒い水が溜まっている。
「文蔵」
子どもの声が言う。
「久しぶり」
文蔵の表情が凍りついた。その呼び方だった。敬称もない。まるで昔から知っている相手を呼ぶような口調。
「……まだ、おったか」
文蔵の声がかすれる。男は笑みを深くした。
「約束したよね。また閉めるって」
俺の背中を冷たい汗が流れた。──昔、一緒に閉めたじゃないか。高槻家で怪異が文蔵に言った言葉と同じだ。あれは、嘘ではなかった。文蔵は本当に、この怪異と向き合ったことがある。
「文蔵さん……」
俺が呼ぶと、老人は目を離さないまま静かに言った。
「正樹。絶対に、あれの名前を聞くな。名を知れば、向こうもお前を知る」
男はくすりと笑った。
「遅いよ、もう知ってる」
その瞬間、自治会館中の窓ガラスが一斉に震えた。
ビリビリ、と甲高い音が響く。
すべての窓に、水滴が内側から流れ始める。誰も外に触れていない。それなのに、ガラスの向こう側ではなく、こちら側を黒い水が流れ落ちていた。
一本。また一本。やがてその水滴は文字を描き始める。震える線で、子どもの字のように。
──かえして。
隣の窓にも。
──ぼくの。
さらに別の窓にも。
──なまえを。
部屋中の窓という窓が、同じ言葉で埋め尽くされていく。かえして。ぼくのなまえを。
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