うしろの間 第28話
誰も声を出せなかった。窓いっぱいに浮かぶ文字は、黒い水で書かれている。滴るたびに形を変え、それでも意味だけは崩れない。
かえして。ぼくのなまえを。
年配の消防団員が震える声で言った。
「……名前って、何のことだ」
文蔵は答えない。いや、答えられないのだ。その沈黙が何より雄弁だった。男──いや、男の姿を借りた何かが、一歩前へ出る。足元の水は波紋一つ立てない。
「忘れたの」
幼い声が笑う。
「みんな忘れた。だから僕たちは残った」
その言葉と同時に、窓の文字がゆっくりと流れ落ちた。黒い雫は床へ落ちることなく、途中で消える。まるで水ではなく、影そのものだった。
文蔵が低く言う。
「皆、耳を塞げ。何を言われても聞くな」
全員が慌てて耳を押さえる。俺も両手で耳を塞いだ。だが、それでも聞こえる。声は耳からではない。頭の中へ直接流れ込んでくる。
『正樹』
『寒い』
『苦しい』
『一人は嫌だ』
『一緒に帰ろう』
胸が締め付けられる。知らないはずの声なのに、どこか懐かしい。
三歳の頃。熱にうなされていた夜。誰かが、ずっと俺の名前を呼んでいた気がする。思い出しかけた瞬間──。
パシンッ!
頬に鋭い痛みが走った。
「しっかりしろ!」
三島だった。俺の頬を思い切り叩いたらしい。目の前が一気に晴れる。
「何ぼーっとしてんだ! お前、歩き出そうとしてたぞ!」
足元を見る。いつの間にか俺は、水たまりの中へ片足を踏み入れていた。あと一歩で、男の姿を借りた怪異の前まで行くところだった。
背筋が凍る。
「ありがとう……」
三島は息を荒げながら頷いた。
「礼はあとだ。ここから出るぞ」
その時、自治会長が叫んだ。
「裏口が開かない!」
全員が振り返る。数人が押しているが、扉はびくともしない。鍵は開いている。なのに、まるで外側から何百人もの人間が押さえているようだった。
次の瞬間。
ドン。
扉が内側へ震えた。
ドン。
また。誰かが叩いている。いや、一人ではない。何人も。何十人も。一定の間隔で。
ドン。
ドン。
ドン。
「開けて」
子どもの声。
ドン。
「寒いよ」
ドン。
「入れて」
ドン。
老人の声が混じる。女の声。男の声。赤ん坊の泣き声。様々な声が重なり、一つの言葉になる。
「開けて」
誰かが嗚咽した。文蔵は扉から目を離さず、静かに言う。
「開けても、そこは外じゃない。もう会館は呑まれ始めとる」
俺は周囲を見回した。確かに様子がおかしい。廊下が、長い。さっきまで数メートルしかなかったはずなのに、突き当たりが霞んで見える。天井も高くなっている。壁紙は湿り、古い土壁のように崩れ始めていた。
三島も異変に気付く。
「建物が……変わってる」
「違う」
文蔵は苦い顔で首を振る。
「変わったんじゃない。重なり始めた。昔の川と、ここがな」
その瞬間、俺の足元を流れる黒い水が、一気に冷たさを増した。水面に、自分の顔が映る。だが、それは俺ではなかった。濡れた着物を着た、小さな子ども。その子が水の中からゆっくりとこちらを見上げ、唇だけを動かした。
「やっと、見つけた」
反射的に飛び退いた。靴底が濡れた床を滑り、肩が壁へぶつかる。もう一度、水面を見る。そこには俺しか映っていない。
乱れた呼吸。青ざめた顔。額に浮かぶ汗。さっきの子どもの姿は消えていた。
「見たか」
文蔵が低く尋ねる。俺は頷く。
「子どもが……俺を見てた」
文蔵は目を閉じる。
「とうとう姿を見せ始めたか」
「どういう意味だ」
「今までは声だけじゃった。次は姿。最後は触れる」
その続きを聞くのが怖かった。
「最後は、何なんだ」
文蔵は俺を見た。
「お前と入れ替わる」
その言葉に、喉が音を立てた。母さんが小さく首を振る。
「違う。入れ替わるんじゃない」
全員の視線が母さんへ集まる。母さんは震えながら、自分の腕を抱いた。
「もっと……静かだった。気付いた時には終わってる」
文蔵は何も言わない。否定しない。母さんは続けた。
「向こうは、奪うんじゃない。少しずつ。少しずつ、周りを書き換えるの」
その声には実感があった。
「最初は癖。次は思い出。好きな食べ物。利き手。笑い方。家族が覚えている私が、少しずつ変わっていく」
三島が眉をひそめる。
「そんなこと……」
「あるの」
母さんは即座に答えた。
「私のお母さんがそうだった」
空気が凍りつく。
「最初は『真紀は昔から左利きだった』って言い出した。私は右利きなのに。次は『小さい頃、川で遊ぶのが好きだった』。そんな記憶、一度もない」
母さんの唇が震える。
「最後には、『熱を出したことなんてなかった』って」
俺は息を止めた。
三歳の高熱。祖母の家へ運ばれた夜。その記憶が脳裏をよぎる。もし、あの日から少しずつ、少しずつ書き換えられているとしたら、俺が覚えている人生は、本当に俺のものなのか。
「正樹」
三島が肩を叩く。
「顔色悪いぞ」
「……ああ」
返事をしながら、自分の声に違和感を覚えた。
ほんの少しだけ、自分ではない誰かが話しているような感覚。疲れているだけだ。そう思おうとした、その時だった。
「正樹さん」
知らない声がした。廊下の向こうから、誰もいないはずの暗闇から、一人の少女が歩いてくる。
高校生くらいだろうか。白いワンピースを着ているが裸足。
長い黒髪が濡れて肩に張り付いている。
誰だ。
避難していた人の中にはいない。少女は俺を見て、困ったように微笑んだ。
「やっと会えた」
三島が前へ出る。
「君、誰だ」
少女は三島を見ない。まっすぐ俺だけを見つめている。
「迎えに来たの」
その言葉に、文蔵が顔色を変えた。
「下がれ!」
怒鳴ると同時に、文蔵は懐から小さな布袋を取り出した。中には白い塩が入っている。勢いよく少女の足元へ撒いた。白い粒が床に散る。少女はぴたりと止まった。そして、ゆっくり足元を見下ろす。悲しそうに笑う。
「……まだ、入れないんだ」
その一言に、俺は背筋が冷えた。
“まだ”。
つまり、条件さえ満たせば入れる。少女は顔を上げる。その瞳には涙が浮かんでいた。
「でも、もうすぐだよ。もうすぐ、思い出すから。あなたは──」
言葉が途切れる。少女の姿が、水面に溶けるように崩れ始めた。足元から黒い水へ変わり、床へ染み込んでいく。最後に残ったのは、微笑みだけだった。
「川は、忘れた人から迎えに来る」
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