うしろの間 第29話
少女が消えたあとも、その場所だけが濡れていた。黒い水ではない。澄んだ水だ。だが、その水面は不自然に揺れている。誰も触れていないのに、小さな波紋が何度も広がっていた。文蔵は塩をもう一握り撒く。波紋はすっと消えた。
「……今のは何だったんだ」
三島が尋ねる。文蔵は珍しく、すぐには答えなかった。長い沈黙のあと、小さく口を開く。
「あれは呼び役じゃ」
「呼び役?」
「あいつらは直接、外へは出られん。だから、先に心を連れていく」
俺は少女の最後の言葉を思い出す。
──川は、忘れた人から迎えに来る。
「忘れた人って……」
「自分を忘れた者じゃ」
文蔵は俺をまっすぐ見た。
「自分が誰か分からなくなった時、人は一番弱くなる」
その言葉に、母さんが目を伏せた。自分もそうだったのだろう。十歳のあの日から、ずっと。自分が本物なのか、それとも「帰ってきた誰か」なのか。答えのない問いを抱え続けてきた。
自治会館の外で風が吹く。窓ガラスが小さく震えた。だが、もう誰も窓の外を見ようとはしない。見れば、そこに何かが立っている気がした。
「ここには長くおれん」
文蔵が言う。
「夜が深くなるほど境が薄くなる」
三島が周囲を見回す。
「でも、どこへ行く」
文蔵は壁の古い地図へ歩み寄った。黒い染みはまだ残っている。その上を指でなぞり、ある一点で止めた。
「ここじゃ」
「……旧水無橋」
自治会長が目を見開く。
「もう橋なんかないぞ。道路になって三十年以上だ」
「橋はなくても、川は残っとる」
文蔵の声は静かだった。
「見えんだけじゃ」
その時だった。自治会館の奥、倉庫の方から物音がした。
ゴトン。
重いものが倒れる音。全員が身構える。
「誰かいるのか?」
消防団員が懐中電灯を向ける。返事はない。代わりに、カタ……カタ……と棚が揺れる音だけが響く。
「待て」
文蔵が止めるより早く、若い団員が倉庫へ近付く。懐中電灯の光が暗闇を切り裂く。古い机。段ボール。折り畳み椅子。何もない。
「誰もいません!」
団員が振り返った、その瞬間だった。懐中電灯の光が、一枚の古びた写真立てを照らした。
「……なんだ、これ」
棚の奥に、埃をかぶった集合写真が置かれていた。自治会の記念写真らしい。何十年も前のものだ。団員は何気なく写真を手に取る。そして、動きを止めた。
「どうした!」
三島が駆け寄る。団員は青ざめた顔で、震える指を写真へ向けた。
「この子……」
全員が写真を覗き込む。一番端。列から少しだけ離れて立つ、小さな男の子。濡れた着物。俯いた顔。見覚えがあった。さっき、廊下で見た子どもだ。その場の空気が凍り付く。
さらに、写真の右下には撮影日が記されていた。昭和三十八年 水無地区自治会文蔵の手から杖が落ちた。乾いた音が響く。老人は写真を見つめたまま、かすれた声でつぶやく。
「……嘘じゃ。この写真には、その子は写っとらんはずじゃ」
部屋の空気が、また一段冷えた。
「写っとらん……はず?」
三島が聞き返す。文蔵は震える手で写真を受け取った。食い入るように見つめる。
「儂は覚えとる。この写真を撮った日を」
老人の指先が、小さな男の子の顔で止まる。
「祭りの日じゃ。橋が埋め立てられる前の、最後の夏祭り」
遠くを見るような目になる。
「子どもらが十五人並んで写真を撮った。十五人……」
俺は人数を数えた。
一人。
二人。
三人。
十六人。
「一人多い」
三島も気付いたらしい。
「この子だけ増えてる」
写真の子どもは俯いたまま、顔がはっきり見えない。それでも、濡れた着物だけは異様に鮮明だった。
周囲の子どもたちは浴衣姿なのに、その子だけが、水から上がったばかりのように全身が濡れている。
「おかしいだろ」
三島が呟く。
「誰もこんなの気付かなかったのか」
「気付いても忘れる」
文蔵は即座に言った。
「だから残る。見た者が忘れる。写真だけが覚えとる」
その言葉に、全員が黙り込んだ。写真だけが覚えている。妙に納得してしまう自分がいた。祖母の日記にも、似たようなことが書かれていた気がする。
紙は、人より長く記憶する。その時だった。
パラリ。
写真の裏から、一枚の紙が床へ落ちた。古い和紙。半分ほど茶色く変色している。文蔵が拾い上げる。達筆な筆文字が並んでいた。
「……名帳」
老人の顔色が変わる。
「名帳?」
俺が尋ねると、文蔵は紙を握り締めた。
「昔、預かった名を書き留めた帳面じゃ。その切れ端じゃ」
三島が身を乗り出す。
「何て書いてある」
文蔵は紙を開く。墨は滲んでいる。読める文字は少ない。
── 八月十二日
── 川にて一名
── 名を預かる
── ……
最後の一行だけは、墨が濃く残っていた。
呼び返してはならぬ
その五文字だけが、異様なほど力強い。まるで書いた人間が、自分自身へ言い聞かせるように。文蔵はその文字を見つめ、静かに目を閉じた。
「祖母さんの字じゃ」
俺は息を呑む。
「ばあちゃんが?」
「ああ。これは、あの人が書いた」
文蔵の声には確信があった。
「……間に合わなんだか」
その呟きの意味を尋ねようとした、その時、写真立てが、音もなく床へ落ちた。ガラスは割れない。ただ、写真だけが滑り出す。表を向いていた写真が、ゆっくりと裏返る。
全員が息を止めた。裏面には何もないはずだった。だが、違った。黒い染みが広がっている。染みは次第に形を変え、一本の線になった。線は枝分かれし、曲がり、蛇行する。
「……川だ」
三島が呟く。地図だった。昔の川の流れ。今は埋め立てられ、誰も知らないはずの水路。その流れの終点に、小さな丸印が付けられている。丸の横には、震えるような文字で一言だけ書かれていた。
ここで最初に呼んだ
文蔵がその文字を見た瞬間、苦しそうに目を伏せた。そして誰にも聞こえないほど小さな声で言った。
「……違う。呼んだんじゃない。儂らが、呼んでしまったんじゃ」
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