うしろの間 第1話
祖母が死んだのは、六月の終わりだった。
梅雨の雨が三日ほど途切れた朝、仕事中の俺の携帯に、見慣れない固定電話の番号が表示された。営業先から戻る途中、コンビニの駐車場でその番号に折り返すと、受話器の向こうに出たのは、聞き覚えのない女の声だった。
「高槻さんのお孫さんですか」
女は、まるで古い習慣を一つずつ確認するみたいに、ゆっくりとした口調で言った。
「ええ、孫です」
「おばあさまが、亡くなられました。今朝方です。こちら、多久島の……」
その先の地名を聞いた瞬間、俺は妙な気分になった。
多久島県浅川郡まぜの丘町。
母方の祖母が一人で暮らしていた、海沿いの小さな町だ。子供のころに二度だけ行ったことがある。海の匂いと、畳の湿り気と、障子の向こうが妙に暗かったことだけ覚えている。最後に祖母と会ったのは、たぶん中学のころだった。
女は、町役場の福祉課に勤めていると言った。祖母は自宅で倒れているところを、見回りに来た民生委員に発見されたらしい。近くに身寄りがなく、連絡先として残されていたのが、東京に住む母と、その息子である俺の名前だった。
「お母さまには先ほどご連絡しました。ただ、お仕事の都合ですぐには来られないとのことで……。もし可能でしたら、お孫さんのほうで一度、お家の確認に来ていただけないでしょうか」
確認、という言い方が気になった。
「葬儀とか、そういうのは……」
「町内で最低限の手配は進めます。ただ、お家の中の整理や、今後のことがありますので」
電話の向こうで、一瞬だけ間があいた。
「それと、おばあさまが亡くなる少し前から、少し……おかしなことをおっしゃっていたようで」
「おかしなこと?」
「いえ、こちらの話です。お越しになる日が決まりましたら、またご連絡ください」
それ以上は話したくない、というような口ぶりだった。
俺はその日のうちに母へ連絡した。母は意外なほど淡々としていた。
「そう。とうとう、って感じね」
第一声がそれだった。
「行ける? あんた」
「行けるけど……母さんは?」
「今ちょっと抜けられないの。悪いけどお願い。葬儀も家のことも、いったん見てきて。必要なら後から私も行く」
母は、祖母のことをほとんど話さない。仲が悪かったというより、祖母に関する記憶だけを意図的に切り離しているような感じが昔からあった。俺が子供のころ、「おばあちゃんの家ってどんなところ?」と訊いても、母は「古い家よ。あまり好きじゃなかった」としか言わなかった。
「なあ、ばあちゃんって、なんで一人であんなとこ住んでたんだ?」
「昔からあの家を離れなかったの」
「親戚とかいないの?」
「ほとんど縁が切れてる」
母はそこで一度黙った。
「もし家に行くなら、二階の奥には入らないで」
「は?」
「……なんでもない。古い家だから危ないってこと。床が抜けるかもしれないし」
「今の、絶対そういう感じじゃなかっただろ」
「とにかく、一泊か二泊で済ませて帰ってきなさい。変なもの見つけても触らないこと。押し入れの中とか、勝手に漁らないこと。近所の人に言われたことを、なんでも真に受けないこと」
母はそれだけ言って電話を切った。
その夜、俺は妙に寝つけなかった。
祖母の顔を思い出そうとしても、うまく輪郭が出てこない。写真で見たような記憶と、実際に会った記憶が混ざっていた。覚えているのは、痩せた手と、いつも紺色の割烹着を着ていたこと、そして俺の頭を撫でるときに「この子は後ろを見ちゃいけん」と言ったことくらいだった。
当時は意味がわからなかった。
今もわからない。
ただ、その言葉だけが、ひどく鮮明に残っていた。
まぜの丘町に着いたのは、二日後の午後三時過ぎだった。
多久島市からさらに南へ、特急と各駅停車を乗り継ぎ、最後は一両編成のローカル線に揺られた。窓の外には山が迫り、その反対側には鉛色の海がちらつく。雨は降っていないのに、空気は湿っていて、駅に降りた瞬間、服が肌に貼りつくようだった。
無人駅のホームには、誰もいなかった。
駅舎の壁に貼られた観光ポスターは色褪せ、待合室のベンチには新聞が一部置きっぱなしになっていた。駅前のロータリーにタクシーはなく、代わりに軽トラックが一台停まっていて、荷台に発泡スチロールの箱が積まれている。魚の生臭い匂いが風に混じっていた。
スマホの地図で祖母の家までの道を確認していると、背後から声をかけられた。
「高槻さんとこの」
振り向くと、五十代くらいの男が立っていた。日に焼けた顔に深い皺が刻まれ、首にタオルを巻いている。軽トラックの持ち主らしかった。
「東京から来た孫さんやろ」
「あ、はい」
「役場から聞いとる。家まで乗ってくか」
男はそう言うと、俺の返事も待たず助手席のドアを開けた。
車内は潮と煙草の匂いが染みついていた。ダッシュボードには色の剥げた交通安全のお守りと、小さなプラスチックの観音像が置かれている。男は名乗らなかったし、俺も訊かなかった。田舎には、説明を省いて成立する会話がある。
駅前を離れると、道はすぐに細くなった。海沿いの国道から一本山側に入ると、家並みは途端にまばらになり、古いブロック塀と空き家が目立ち始めた。庭木が伸び放題の家、窓に板を打ちつけた家、屋根瓦が一部崩れたまま放置されている家。人の気配が薄いのに、生活の痕跡だけが腐らず残っている感じがした。
「おばあさん、さいごまであの家におったんやな」
男が前を見たまま言った。
「ええ、まあ……」
「よう一人でおれたもんや」
何か含みのある言い方だった。
「そんなに古い家なんですか」
「古いいうか……あそこは、もともと高槻の本家やけんな」
「本家?」
男は一度だけこちらを見たが、すぐ視線を戻した。
「聞いとらんか。昔はあの辺いったい、高槻さんとこの土地やった。山の手前までずっと。漁も林も、みんなあそこの顔色見よった時代がある」
そんな話は初耳だった。母は実家のことをほとんど話さないし、祖母も昔のことを語る人ではなかった。
「今はもう、見る影もないけどな」
男はそう言って鼻で笑ったが、軽蔑というより、言いにくいものを誤魔化すような笑い方だった。
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