川底の家 最終話
暗闇は、ただ黒いだけではなかった。
深い水の底に沈んだ泥のように重く、冷たく、触れれば指先にまとわりつくような粘りがあった。
その中で、透は自分の身体の輪郭を失っていた。
手も足も、胸の奥の鼓動さえ、遠く離れた誰かのもののように感じられる。
自分という形が、ゆっくりと水に溶けていく。
ただ、皮膚の表面を撫でる冷たい水の流れだけが、かろうじて「ここに身体がある」と教えてくれていた。
暗闇の奥で、白い点が二つ、ゆらりと揺れた。
水の揺らぎに合わせて、星のように瞬きながら近づいてくる。
――影だ。
影は水を押し分ける音もなく、透の目の前まで滑るように来ると、透の顔と同じ高さに浮かび、輪郭をゆっくりと波打たせながら、じっと透を見つめた。
透は後ずさろうとした。
だが、足は動かない。
いや――動かないのではなく、動かされている。
水の抵抗とは別の、見えない力が足首を掴み、透の意思を奪っていた。
影が透の胸に手を当てた。
その手は水よりも冷たく、しかし確かに“触れて”いた。
次の瞬間、透の胸の奥で何かが“外れた”。
ぱきん。
乾いた音が、水の底に不釣り合いなほど鮮明に響いた。
透は息を呑んだ。
胸の奥から、冷たい何かがゆっくりと引き抜かれていく。
痛みはない。
だが、自分の中身が水に吸い出されていくような感覚だけが、恐ろしいほどはっきりしていた。
影の白い点が揺れた。
透の胸に触れたまま、影は透の目を覗き込む。
――返してもらう。
その声は透自身の声だった。
だが、水底の圧力を含んだような低さで、胸の奥に直接響いた。
透の視界が揺れた。
祖父の家の天井が、水面に映った幻のように一瞬だけ浮かび、次の瞬間には暗闇に飲み込まれる。
透は叫んだ。
「やめろ……俺は……俺は……!」
影は首を傾けた。
その動きは、透がこれまで何度も見てきた“影の動き”だった。
まるで、透の癖を真似しているかのように。
――お前は“俺の半分”だ。
――だから、戻ってくる。
胸の奥から冷たい何かが完全に抜け落ちた瞬間、
透の身体は糸の切れた人形のようにぐらりと傾いた。
影が透を抱きとめる。
その抱き方は――透が“死んだとき”、影が抱いていた抱き方と同じだった。
影は透の耳元で囁いた。
――次は“身体”だ。
透の視界が完全に暗く沈んだ。
遠くで、水が岩に触れるような音だけが響いている。
そのとき、透は気づいた。
自分の身体が、勝手に動いている。
右手がゆっくりと上がる。
左足が、水の抵抗を切り裂くように前へ出る。
影の動きと完全に同期していた。
「やめろ……俺の身体だ……!」
――違う。
――それは“俺たちの身体”だ。
透の視界が二重になった。
上の世界。
下の世界。
祖父の家の天井と、水の底の暗闇が、まるで二枚の薄い膜のように重なって見える。
透は混乱した。
「……俺は……どっちにいる……?」
――どちらにもいる。
――お前は“半分”だから。
透の背筋が震えた。
「……じゃあ……俺は……誰なんだ……?」
影は再び透の胸に手を当てた。
その手の冷たさは、もはや恐怖ではなく、運命のように思えた。
――お前は“透”だ。
――そして“俺”だ。
透の心臓が、影の鼓動と完全に重なった。
水の中で、二つの鼓動が一つの波紋になって広がる。
そのとき、遠くから声が聞こえた。
「透……!」
祖父の声だ。
透は顔を上げた。
視界の上の層に、祖父の姿が水越しにぼんやりと浮かんでいる。
祖父は泣いていた。
水面の揺らぎが、祖父の涙を歪ませていた。
「透……戻ってこい……!」
影が透を抱きしめる。
――行くな。
透の胸が裂けそうになった。
「……じいちゃん……」
祖父は叫ぶ。
「透! お前は……生きてるんだ……!」
――違う。
――お前は“戻された”だけだ。
透は震えた。
「……俺は……どっちなんだ……?」
祖父は涙を流しながら言った。
「透……お前は……私の孫だ……!」
影は透を強く抱きしめた。
――お前は“俺の半分”だ。
透の胸の奥が、二つの方向に引き裂かれそうになる。
透は叫んだ。
「やめろ……やめろ……俺は……!」
影が透の胸に手を当てる。
――選べ。
透は息を呑んだ。
――“上”に残るか。
――“下”に戻るか。
祖父の手が、水の膜の向こうから伸びてくる。
影の手が、透の胸の奥を掴んで離さない。
透は目を閉じた。
そして――選んだ。
透は影の腕に身を預けた。
その瞬間、祖父の手が透に触れようとしたが、透の身体は水の底へと静かに沈み始めた。
祖父の叫び声が、水の膜の向こうで歪んでいく。
「透……! 透……!!」
透は振り返らなかった。
振り返れば、戻れなくなると分かっていた。
影が透の手を握る。
――帰ろう。
透は頷いた。
水の底の暗闇が、透の視界を完全に包み込む。
冷たい水が、透の身体の隙間に入り込み、その冷たさは――懐かしい温度だった。
透は影の胸に抱かれながら、ゆっくりと目を閉じた。
胸の奥で、影の鼓動と透の鼓動が完全に重なる。
透の身体の輪郭が揺れ、影の輪郭と重なり、やがて――一つの形になった。
透は影の声で呟いた。
「……ただいま」
水の底は静かだった。
冷たく、深く、そして――どこよりも安らかだった。
透は影と一つになり、“本来の場所”へ帰った。
物語は、静かに幕を閉じた。
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