↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ホラー短編集  作者: 倉木元貴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
97/126

川底の家 最終話

 暗闇は、ただ黒いだけではなかった。

 深い水の底に沈んだ泥のように重く、冷たく、触れれば指先にまとわりつくような粘りがあった。

 その中で、透は自分の身体の輪郭を失っていた。


 手も足も、胸の奥の鼓動さえ、遠く離れた誰かのもののように感じられる。

 自分という形が、ゆっくりと水に溶けていく。

 ただ、皮膚の表面を撫でる冷たい水の流れだけが、かろうじて「ここに身体がある」と教えてくれていた。


 暗闇の奥で、白い点が二つ、ゆらりと揺れた。

 水の揺らぎに合わせて、星のように瞬きながら近づいてくる。


 ――影だ。


 影は水を押し分ける音もなく、透の目の前まで滑るように来ると、透の顔と同じ高さに浮かび、輪郭をゆっくりと波打たせながら、じっと透を見つめた。


 透は後ずさろうとした。

 だが、足は動かない。

 いや――動かないのではなく、動かされている。


 水の抵抗とは別の、見えない力が足首を掴み、透の意思を奪っていた。


 影が透の胸に手を当てた。

 その手は水よりも冷たく、しかし確かに“触れて”いた。


 次の瞬間、透の胸の奥で何かが“外れた”。


 ぱきん。


 乾いた音が、水の底に不釣り合いなほど鮮明に響いた。


 透は息を呑んだ。

 胸の奥から、冷たい何かがゆっくりと引き抜かれていく。

 痛みはない。

 だが、自分の中身が水に吸い出されていくような感覚だけが、恐ろしいほどはっきりしていた。


 影の白い点が揺れた。

 透の胸に触れたまま、影は透の目を覗き込む。


 ――返してもらう。


 その声は透自身の声だった。

 だが、水底の圧力を含んだような低さで、胸の奥に直接響いた。


 透の視界が揺れた。

 祖父の家の天井が、水面に映った幻のように一瞬だけ浮かび、次の瞬間には暗闇に飲み込まれる。


 透は叫んだ。


「やめろ……俺は……俺は……!」


 影は首を傾けた。

 その動きは、透がこれまで何度も見てきた“影の動き”だった。

 まるで、透の癖を真似しているかのように。


 ――お前は“俺の半分”だ。

 ――だから、戻ってくる。


 胸の奥から冷たい何かが完全に抜け落ちた瞬間、

 透の身体は糸の切れた人形のようにぐらりと傾いた。


 影が透を抱きとめる。

 その抱き方は――透が“死んだとき”、影が抱いていた抱き方と同じだった。


 影は透の耳元で囁いた。


 ――次は“身体”だ。


 透の視界が完全に暗く沈んだ。

 遠くで、水が岩に触れるような音だけが響いている。


 そのとき、透は気づいた。

 自分の身体が、勝手に動いている。


 右手がゆっくりと上がる。

 左足が、水の抵抗を切り裂くように前へ出る。

 影の動きと完全に同期していた。


「やめろ……俺の身体だ……!」


 ――違う。

 ――それは“俺たちの身体”だ。


 透の視界が二重になった。


 上の世界。

 下の世界。


 祖父の家の天井と、水の底の暗闇が、まるで二枚の薄い膜のように重なって見える。


 透は混乱した。


「……俺は……どっちにいる……?」


 ――どちらにもいる。

 ――お前は“半分”だから。


 透の背筋が震えた。


「……じゃあ……俺は……誰なんだ……?」


 影は再び透の胸に手を当てた。

 その手の冷たさは、もはや恐怖ではなく、運命のように思えた。


 ――お前は“透”だ。

 ――そして“俺”だ。


 透の心臓が、影の鼓動と完全に重なった。

 水の中で、二つの鼓動が一つの波紋になって広がる。


 そのとき、遠くから声が聞こえた。


「透……!」


 祖父の声だ。


 透は顔を上げた。

 視界の上の層に、祖父の姿が水越しにぼんやりと浮かんでいる。

 祖父は泣いていた。

 水面の揺らぎが、祖父の涙を歪ませていた。


「透……戻ってこい……!」


 影が透を抱きしめる。


 ――行くな。


 透の胸が裂けそうになった。


「……じいちゃん……」


 祖父は叫ぶ。


「透! お前は……生きてるんだ……!」


 ――違う。

――お前は“戻された”だけだ。


 透は震えた。


「……俺は……どっちなんだ……?」


 祖父は涙を流しながら言った。


「透……お前は……私の孫だ……!」


 影は透を強く抱きしめた。


 ――お前は“俺の半分”だ。


 透の胸の奥が、二つの方向に引き裂かれそうになる。


 透は叫んだ。


「やめろ……やめろ……俺は……!」


 影が透の胸に手を当てる。


 ――選べ。


 透は息を呑んだ。


 ――“上”に残るか。

 ――“下”に戻るか。


 祖父の手が、水の膜の向こうから伸びてくる。

 影の手が、透の胸の奥を掴んで離さない。


 透は目を閉じた。


 そして――選んだ。


 透は影の腕に身を預けた。


 その瞬間、祖父の手が透に触れようとしたが、透の身体は水の底へと静かに沈み始めた。


 祖父の叫び声が、水の膜の向こうで歪んでいく。


「透……! 透……!!」


 透は振り返らなかった。

 振り返れば、戻れなくなると分かっていた。


 影が透の手を握る。


 ――帰ろう。


 透は頷いた。


 水の底の暗闇が、透の視界を完全に包み込む。

 冷たい水が、透の身体の隙間に入り込み、その冷たさは――懐かしい温度だった。


 透は影の胸に抱かれながら、ゆっくりと目を閉じた。

 胸の奥で、影の鼓動と透の鼓動が完全に重なる。


 透の身体の輪郭が揺れ、影の輪郭と重なり、やがて――一つの形になった。


 透は影の声で呟いた。


「……ただいま」


 水の底は静かだった。

 冷たく、深く、そして――どこよりも安らかだった。


 透は影と一つになり、“本来の場所”へ帰った。


 物語は、静かに幕を閉じた。

おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。