川底の家 第17話
透は畳に手をつき、荒い息を吐いた。
胸の奥が冷たく、重い。心臓の鼓動が、自分のものではないように遠く響いている。
「……俺……本当に……“上”の人間なのか……?」
その言葉を呟いた瞬間、視界がふっと暗くなった。
まぶたを閉じたわけではない。部屋の光が、透の目に届かなくなった。
代わりに――水の底の景色が透の視界に重なった。
祖父の部屋の天井の上に、濁った水面が揺れている。畳の上に、ゆらゆらと水の影が落ちている。
透は震えた。
「……やめろ……俺の目だ……!」
だが、視界は戻らない。
むしろ、もっと深く沈んでいく。
祖父の部屋の柱が、ゆっくりと黒ずみ、水に濡れた木の色に変わる。
畳が沈むように軋む。床の下から、低い水音が響く。
ごぼ……ぼこ……
透は後ずさった。だが、足が動かない。
影の声が囁いた。
――見えているのは“俺の視界”だ。
――お前の視界は、もう半分しか残っていない。
透は叫んだ。
「やめろ……俺の視界を……奪うな……!」
――奪っていない。
――返してもらっているだけだ。
透の視界がさらに沈む。
祖父の部屋の壁が、完全に“水の底の色”に変わった。
透は胸を押さえた。
心臓の鼓動が、影の声と同じリズムで響いている。
「……俺……本当に……生きてるのか……?」
影の声が静かに答えた。
――生きている。
――だが、お前は“半分”だ。
透の右手が、勝手に動いた。ゆっくりと、透の頬に触れる。
その動きは、透が知っている“影の動き”だった。
透は震えた。
「……俺の手じゃない……」
――違う。
――それは“俺の手”だ。
透の視界が揺れ、祖父の部屋の天井が消えた。
代わりに、暗い水の底が広がる。
透は息を呑んだ。
「……ここ……どこだ……?」
影の声が囁いた。
――“下”だ。
――お前がいた場所だ。
透の胸の奥が、深い水に沈むように重くなった。
そのとき、祖父のノートが勝手に開いた。最後のページに、震える字が浮かび上がるように見えた。
「透。お前は“完全”ではない。影も“完全”ではない。どちらかが、どちらかを取り戻すしかない」
透は息を呑んだ。
影の声が、透の耳元で囁いた。
――返してもらう。
――お前の“残り”を。
透の視界が完全に沈んだ。
透は視界が沈んでいくのを止められなかった。
祖父の部屋の輪郭が溶け、色が抜け、代わりに、暗い水の底の景色がゆっくりと浮かび上がる。
「……やめろ……ここは俺の家だ……!」
声は震えていた。
だが、足元の畳はもう畳ではない。黒く濁った水面が、透の足首を包むように揺れている。
冷たい。
その冷たさは“思い出したことのある温度”だった。
影の声が、透の胸の奥で響く。
――戻ってきているだけだ。
――お前がいた場所に。
透は首を振った。
「違う……俺は……上で……じいちゃんと……」
言いかけた瞬間、その“記憶”がぐらりと揺れた。
祖父と過ごしたはずの縁側が、水に沈むように歪んでいく。祖父の笑い声が、泡のように弾けて消える。
透は胸を押さえた。
「……やめろ……俺の記憶だ……!」
――違う。
――それは“与えられた記憶”だ。
透の視界がさらに沈む。祖父の部屋の柱が完全に消え、代わりに、黒い岩壁が現れた。
水の底の家。影が住んでいた場所。
透は後ずさろうとしたが、足が動かない。
いや――動かされている。
透の右足が、勝手に前へ出た。水の中へ、一歩。また一歩。
透は叫んだ。
「やめろ……俺は歩いてない……!」
――歩いているのは“俺”だ。
透の右手が、胸の上に置かれる。その位置は、影が透を抱いていたときと同じ場所。
透は震えた。
「……俺の身体じゃない……」
――違う。
――お前の身体は“半分”だ。
――残りの半分は、ここにある。
透の視界が揺れ、水の底の暗闇が透の目を満たす。
その暗闇の中で、白い点が二つ、ゆっくりと浮かび上がった。
影だ。
透は息を呑んだ。
影は、透の形をしていた。
だが、輪郭が揺れ、透の顔と影の顔が重なったり離れたりする。
影が透に手を伸ばす。
――返してもらう。
――お前の“残り”を。
透の胸が強く引かれた。
まるで、心臓そのものが水の底へ引きずられるように。
透は叫んだ。
「やめろ……俺は……俺は……!」
だが、声は水に溶けていく。
影の白い点が、透の目の前まで近づいた。
――お前は“俺の半分”だ。
透の視界が完全に暗く沈んだ。
暗闇の中で、透は自分の呼吸の音すら聞こえなかった。
胸の奥が冷たく、重い。
心臓の鼓動が、どこか遠くで響いている。
その鼓動は――自分のものではない。
暗闇の奥で、白い点が二つ、ゆっくりと浮かび上がった。
影だ。
透は後ずさろうとしたが、足は動かない。
いや、動かないのではなく――動かされている。
影が近づくたびに、透の胸が強く引かれた。
まるで、心臓そのものが影に向かって伸びているように。
影は透の目の前まで来ると、透と同じ高さに顔を合わせた。
透の顔。
影の顔。
二つの輪郭が重なり、離れ、また重なる。
影が透に手を伸ばした。
その手は冷たいはずなのに、触れられる直前、透の皮膚が先に震えた。
まるで、触れられる前から触れられているような感覚。
影の指先が透の胸に触れた。
その瞬間、透の胸の奥で何かが“外れた”。
ぱきん。
透は息を呑んだ。
胸の奥から、冷たい何かが引き抜かれていく。
影の白い点が揺れた。影は透の胸に手を当てたまま、透の目をじっと見つめている。
――返してもらう。
声は透自身の声だった。
だが、深い水の底から響いてくるような低さがあった。
透は震えた。
「……返すって……何を……」
影の指先が、透の胸の奥に深く沈んだ。
痛みはない。だが、自分の中身が抜けていく感覚だけが鮮明だった。
影が囁く。
――お前の“残り”だ。
透の視界が揺れた。
祖父の家の景色が一瞬だけ戻り、次の瞬間には水の底の暗闇に飲まれる。
透は叫んだ。
「やめろ……俺は……俺は……!」
影は首を傾けた。
その動きは、透が知っている“影の動き”だった。
――お前は“俺の半分”だ。
――だから、戻ってくる。
透の胸の奥から、冷たい何かが完全に引き抜かれた。
その瞬間、透の身体がぐらりと傾いた。
影が透を抱きとめる。
その抱き方は――透が“死んだとき”に影が抱いていた抱き方と同じだった。
影は透の耳元で囁いた。
――次は“身体”だ。
透の視界が完全に暗く沈んだ。水音だけが、遠くで響いていた。
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