川底の家 第16話
透は祖父のノートを胸に抱えたまま、畳の上に座り込んでいた。
頭の奥がずきずきと痛む。
記憶が混ざり、境界が溶けていく。
「……俺は……どっちなんだ……?」
問いかけても、返事はない。
ただ、胸の奥で冷たい水が揺れる。
そのとき、ノートの間から小さな紙片が落ちた。
透は震える手で拾い上げる。
それは、祖父の字で書かれた短いメモだった。
「透。あの日、お前を抱き上げたとき――お前は、影と同じ顔をしていた」
透は息を呑んだ。
「……同じ……?」
メモには続きがあった。
「影は泣いていた。透を返したくないと泣いていた。私は……その声を無視した」
透の胸が締めつけられる。
「……泣いて……?」
影が泣く。
そんなイメージはなかった。
だが、記憶の奥で何かが揺れた。
暗い水の底。
影が透を抱えている。
影の肩が震えている。
白い点が揺れている。
影が言う。
――「返したくない」
透は頭を抱えた。
「……やめろ……これは……俺の記憶じゃ……」
だが、声が返ってくる。
――違う。
――これは“俺たちの記憶”だ。
透は震えた。
「……俺たち……?」
影の声は静かに続けた。
――お前は“上”に行った。
――俺は“下”に残った。
――お前の半分は、まだここにある。
透は胸を押さえた。
心臓の鼓動が、急に遠く感じられる。
そのとき、ノートの別のページがひらりと開いた。
そこには、祖父の震える字でこう書かれていた。
「透は息をしていなかった。影が透の胸に手を当てたとき――透の胸が動いた」
透は凍りついた。
「……影が……?」
ページには続きがあった。
「透を生かしたのは、影だ。私は……それを奪った」
透の視界が揺れた。
床が波打つように見える。
「……じいちゃん……俺を……奪った……?」
記憶がさらに深く潜る。
今度は、影の視点が鮮明だった。
水の底。
透の体は冷たい。
影は透を抱きしめる。
影の胸と透の胸が、同じリズムで動く。
透の目がわずかに開く。
影は安堵する。
影は透を離さない。
影は言う。
――「ここにいろ」
透は叫び声を上げた。
「やめろ……やめろ……俺は……上に……!」
だが、声は返ってくる。
――違う。
――お前は“戻された”だけだ。
――本当は、ここにいた。
透は壁に手をついた。
呼吸が乱れる。
そのとき、ノートの最後のページがまためくれた。
そこには、祖父の最も震えた字でこう書かれていた。
「透。影は、お前の“命の半分”を持っている。影は、それを返してほしいのだ」
透は息を呑んだ。
「……命の……半分……?」
頭の奥で、影の声が囁いた。
――返してもらう。
――お前の“半分”を。
透の胸の奥が、冷たい水に沈むように重くなった。
透は祖父のノートを握りしめたまま、呼吸を忘れていた。
胸の奥が冷たく、重い。
まるで、心臓そのものが水の底に沈んでいるようだった。
「……俺の……半分……」
その言葉を口にした瞬間、頭の奥で“何か”が外れる音がした。
ぱきん。
視界が揺れ、床が波打つ。透は思わず壁に手をついた。
そして――“映像”が流れ込んできた。
♢♢♢
暗い水の底。
冷たい流れ。
透の小さな体が沈んでいく。
息はない。
目は閉じている。
腕は力なく漂っている。
その横に――影がいた。
白い点が二つ、透を見つめている。
影は透に触れようとし、しかし触れられず、水の中で震えている。
透はその映像を見ながら、胸が締めつけられるのを感じた。
「……俺……死んでた……?」
だが、映像は続く。
影は透に近づき、ゆっくりと腕を伸ばす。
冷たい腕が、透の体を抱き寄せる。
影の胸と透の胸が重なる。
その瞬間――透の胸が、わずかに動いた。
とくん。
透は息を呑んだ。
「……影が……?」
影は透を抱きしめたまま、白い点を細める。まるで、泣いているように。
――返したくない。
その声は、透の記憶の中の“影の声”だった。
♢♢♢
映像が切り替わる。
祖父が川に飛び込む。
水は濁り、流れは強い。
祖父は必死に何かを探している。
そして――祖父の手が、影の肩を掴む。
影は透を抱いたまま、祖父を見上げる。
白い点が揺れている。
影は震えている。
祖父は叫ぶ。
――「返せ! 透を返せ!」
影は首を横に振る。
――「返さない」
祖父は影を引き剥がそうとする。
影は透を抱きしめる。
透の胸は、影の胸と同じリズムで動いている。
祖父は叫ぶ。
――「透は人間だ! お前のものじゃない!」
影は、透の頬に触れる。
――「ここにいた」
祖父は影を殴る。
影は透を守るように抱きしめる。
その瞬間――透の胸の鼓動が弱くなる。
祖父は恐怖に顔を歪め、影から透を奪い取る。
影は水の中で崩れ落ちるように沈む。
白い点が揺れ、影は声にならない声で叫ぶ。
――「返して……」
映像が途切れた。
♢♢♢
透は床に手をつき、荒い息を吐いた。
「……じいちゃん……俺を……奪った……?」
胸の奥が痛い。
冷たい。
重い。
そのとき、頭の奥で影の声が囁いた。
――お前は“上”に行った。
――俺は“下”に残った。
――お前の半分は、まだここにある。
透は震える声で呟いた。
「……俺の……半分……?」
透の胸の奥が、深い水に沈むように重くなった。
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