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ホラー短編集  作者: 倉木元貴


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川底の家 第15話

 祖父の部屋は、朝の光が差し込んでいるのに薄暗かった。

 まるで、光そのものがこの部屋を避けているかのように。


 透は散らばった鏡の破片を避けながら、部屋の奥へ進んだ。

 影はもう姿を消していた。

 だが、空気の冷たさだけが残っている。


 ふと、床板の一枚がわずかに浮いていることに気づいた。


「……こんなの、昨日あったか……?」


 透はしゃがみ込み、指先で板を押した。

 板は簡単に外れた。

 その下には、小さな木箱が隠されていた。


 蓋には、祖父の字でこう書かれている。


「透へ。これは“本当の記録”だ」


 透は息を呑んだ。


「……本当……?」


 今まで読んできた日記は、祖父が残した“表向き”の記録だったのか。

 透は震える手で蓋を開けた。


 中には、古びたノートが一冊だけ入っていた。

 表紙には何も書かれていない。

 だが、触れた瞬間、胸の奥がざわりと揺れた。


 まるで、このノートを“知っている”ような感覚。


 透はページを開いた。


 最初の行に、祖父の震える字があった。


「透は、一度死んだ」


 透はノートを落としそうになった。


「……死んだ……?」


 ページをめくる。


「あの日、透は川に落ちた。私はすぐに飛び込んだ。だが、透は水の底に沈んでいた。息をしていなかった」


 透の胸が締めつけられる。


「私は透を抱き上げた。だが、その腕の中にいたのは――透ではなかった」


 透は息を呑んだ。


「……どういう……」


 ページをめくる。


「透の形をしていたが、透ではなかった。白い点が二つ、私を見ていた。それは“影”だった」


 透の背筋に冷たいものが走った。


「影は透を抱えていた。透は影の腕の中にいた。影は私に言った。『返さない』と」


 透は頭を押さえた。


「……返さない……?」


 記憶の奥で、何かが揺れた。


 白い点。

 冷たい腕。

 暗闇。

 沈む。

 祖父の叫び声。

 影の声。


 透はページをめくった。


「私は影と取引した。透を返してもらう代わりに、“影の形”をこちらに残すことを許した」


 透は凍りついた。


「……影の……形……?」


 ページの最後には、こう書かれていた。


「透。お前は助かったのではない。お前は“引き上げられた”のだ。影は今も、お前を探している」


 透はノートを閉じた。

 手が震えている。


「……俺……助かったんじゃ……ない……?」


 そのとき――頭の奥に、声が響いた。


 ――違う。

 ――お前は“戻された”だけだ。


 透は息を呑んだ。

 声は、透自身の声だった。

 だが、温度が違う。深い水の底から響いてくるような声。


 ――返してもらう。


 透の視界が揺れた。床が波打つように見える。


 そして、別の記憶が流れ込んできた。


 水の底。

 影が透を抱えている。

 影が透の名前を呼ぶ。

 影が透の胸に手を当てる。

 影が言う。


 ――「お前は、ここにいた」


 透は叫び声を上げた。


 透は祖父のノートを抱えたまま、畳の上に崩れ落ちた。

 胸の奥がざわつき、呼吸が浅くなる。

 まるで、肺の中に冷たい水が流れ込んでくるような感覚。


「……俺……死んでた……?」


 言葉にした瞬間、頭の奥で何かが軋んだ。


 違う。

 沈んだけど、死んだんじゃない。


 透は顔を上げた。

 声は、透自身の声だった。

 だが、温度が違う。

 深い水の底から響いてくるような声。


「……誰だ……」


 問いかけても、声は答えない。

 ただ、記憶の奥に“別の映像”が流れ込んでくる。


 暗い水の底。

 白い点が二つ、近づいてくる。

 冷たい腕が、自分を抱き寄せる。

 影が、自分の胸に手を当てる。

 影が言う。


 ――「ここにいろ」


 透は頭を抱えた。


「……違う……俺は……助かったんだ……!」


 だが、記憶は止まらない。


 今度は、祖父の声が聞こえた。


 ――「透……返せ……返してくれ……」


 透は息を呑んだ。


「……じいちゃん……?」


 記憶の中で、祖父は川の中に立っていた。

 水は腰まであり、流れは強い。

 祖父は必死に何かを抱き上げようとしている。


 その腕の中にいるのは――透ではなかった。


 透の形をした“影”だった。


 白い点が二つ、祖父を見つめている。


 祖父は叫んだ。


 ――「返せ! 透を返せ!」


 影は首を傾けた。

 その動きは、今の影と同じだった。


 ――「返さない」


 透は震えた。


「……俺……返されてない……?」


 記憶がさらに深く潜る。


 今度は、影の視点だった。


 水の底。

 暗闇。

 冷たい流れ。

 透の小さな体を抱えている。

 透は目を閉じている。

 息をしていない。


 影は透の頬に触れる。

 その指先は冷たいが、優しい。


 ――「ここにいろ」


 影は透を抱きしめる。

 透の胸に手を当てる。

 影の胸と透の胸が、同じリズムで動く。


 ――「お前は、ここにいた」


 透は叫び声を上げた。


「やめろ……やめろ……これは……俺の記憶じゃない……!」


 だが、声は返ってくる。


 ――違う。

 ――これは“俺たちの記憶”だ。


 透は震えた。


「……俺たち……?」


 影の声は静かに続けた。


 ――お前は“上”に行った。

 ――俺は“下”に残った。

 ――だから、戻ってこい。


 透は壁に手をついた。

 視界が揺れる。

 床が波打つように見える。


 そのとき、祖父のノートの最後のページが、風もないのにめくれた。


 そこには、震える字でこう書かれていた。


「透。お前は影と“半分ずつ”になっている。

 影は、お前の“残り”を探している」


 透は息を呑んだ。


「……残り……?」


 頭の奥で、影の声が囁いた。


 ――返してもらう。

 ――お前の“半分”を。


 透の胸の奥が、冷たい水に沈むように重くなった。

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