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ホラー短編集  作者: 倉木元貴


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川底の家 第14話

 川の音が、家全体を震わせていた。

 低く濁った水音が、床下の空洞を叩き、柱を伝って這い上がってくる。


 畳の縁が、かすかに湿っている。空気が重い。水の匂いが、喉の奥に張りつく。


 透は窓へ駆け寄り、息を呑んだ。


 川底の家が、水面から半身を出している。

 屋根から水が糸のように垂れ、ぽた、ぽた、と土を黒く濡らしていた。


 昨日より、明らかに近い。

 岸に、触れている。


 胸の奥が、ゆっくりと沈んでいく。

「近づいてきている」という事実が、思考より先に身体を固めた。

 逃げようという発想すら浮かばない。

 ただ、見てはいけないものを見てしまった子どものように、視線が離れない。


 軋むような音を立てて、家はわずかに前へ傾く。

 濡れた木材が擦れ、鈍い音を鳴らした。


「……嘘だろ……」


 声が震えたのは、恐怖のせいか、それとも“思い出しそうになっている何か”のせいか、自分でもわからない。


 家は動かない。

 だが、止まっているわけでもない。


 窓の奥、暗がりの中で影がゆっくりと起き上がる。

 白い点が二つ、湿ったガラス越しに揺れる。


 まだ形は曖昧なのに、視線だけが異様に重い。

 胸の奥を、指で押されたような感覚。

「見られている」というより、「確かめられている」。

 そんな嫌な確信が、背骨を冷たく撫でた。


 そのとき――背後で、畳がきしんだ。


 ぎ……


 振り返ると、廊下の奥に濡れた足跡が一つ。

 水がじわりと広がり、畳の繊維に染み込んでいく。

 次の一歩が現れる。


 ぽた……


 遅れて、水滴が落ちる音。


 足跡は、ゆっくりとこちらへ向かってくる。

 だが輪郭はまだ曖昧で、縁が滲み、床に溶けるように揺れていた。


「……やめろ……」


 声に力が入らない。

 止めたいのに、止められない。拒絶の言葉が、まるで自分のものではないように軽かった。


 足跡は、寝室の手前で途切れた。


 何も起きない。ただ、湿った空気だけが残る。

 肌に貼りつくような重さが、消えない。胸の奥で、何かがゆっくりと沈んでいく。


 夜。


 障子の向こうで、川の音が膨らんでいる。水が流れるというより、押し寄せてくる音。


 透は目を閉じられずにいた。まぶたを下ろすと、暗闇の奥に“あの白い点”が浮かぶ気がして、瞬きすら怖い。


 ぎ……ぎ……


 廊下が鳴る。


 今度の足跡は、はっきりしていた。


 水を含んだ足が畳を踏むたび、じゅ、と鈍い音がする。

 踏みしめた場所から、黒く濡れが広がる。

 寝室の前で止まる。

 襖が、わずかに震え――するり、と横に開いた。

 冷たい空気が流れ込む。布団の端が、ゆっくりと沈む。綿が押し潰される音が、小さく鳴った。


 ――誰かが、座った。


 きしむ音が、すぐ横で鳴る。

 透の呼吸が乱れる。だがその隣で、別の呼吸が重なる。


 吸う音。吐く音。

 間隔まで、ぴたりと一致する。


「……やめろ……やめろ……」


 心の中で叫んでも、身体は動かない。

 恐怖よりも先に、懐かしさのようなものが胸を締めつける。

 “知っている”という感覚が、喉の奥に張りついて離れない。


 首筋に、冷たい気配が触れる。

 水に濡れた指先のような、重さのない感触。


 その瞬間――記憶が流れ込む。


 幼い自分。

 湿った布団。

 暗闇の中で、隣にある影。

 同じ呼吸。

 同じ鼓動。


 胸の奥に、水が満ちていく感覚。自分の輪郭が、ゆっくりと水に溶けていく。


「……違う……!」


 透は跳ね起きた。隣には何もない。

 だが布団は、冷たく濡れている。指先に、水の感触が残った。


 朝。


 空気が重いまま、乾いていない。窓の外から、すぐ近くで水音がする。


 透はゆっくりと窓を見る。


 川底の家が、庭の端に立っていた。


 完全に水の外に出ている。

 壁から滴る水が、地面に小さな水たまりを作っている。


 家は、わずかに揺れていた。

 風ではない。内部から軋むような動き。


 窓の奥の影が、立っている。


 白い点が、今はっきりと“目”になっている。


 透の喉が鳴る。

 逃げたいのに、足が動かない。

「見つかった」という確信が、背中に冷たい汗を流した。


 そのとき――背後で、水音がした。


 ぽた……ぽた……


 振り返ると廊下に、足跡が続いている。

 はっきりとした形。水を落としながら、一直線に伸びている。


 寝室を通り過ぎる。濡れた跡が、畳に深く染み込んでいく。


 祖父の部屋へ。襖が、音もなく開く。

 湿った空気が、流れ出てくる。透は引き寄せられるように、中を覗いた。


 鏡が、濁っている。


 表面が波打ち、まるで水面の下から見ているように歪んでいる。


 部屋の空気が冷たい。息を吐くと、わずかに白く曇る。


 その奥に――透がいた。


 だが違う。


 輪郭が濃い。影が深く、目の奥の白が際立っている。


 “向こう側”の方が、現実だ。


「……俺……」


 鏡の中の透が、先に動いた。

 ゆっくりと手を上げる。透は遅れて同じ動きをする。

 わずかに、ずれる。


 その一瞬の遅れが、はっきりと見える。

 胸の奥が冷たくなる。

「どっちが本物だ?」という問いが、喉の奥で固まったまま動かない。


 鏡の表面が、内側から押し上げられる。


 ぼこっ……


 水を押したように膨らむ。指の形が、ぬるりと浮き上がる。

 押しているのは、向こう側の透だ。


 ぱき……


 細い亀裂が走る。湿った音を立てて、広がっていく。

 透は後退る。そのとき、頭の奥に声が響いた。


 ――お前は、もう上にいない。


「……どこに……」


 ――最初から、こっちだ。


 胸の奥が、すっと軽くなる。

 同時に、何かが抜け落ちる。

 自分の名前の重さすら、指の間からこぼれ落ちていくようだった。


 記憶が、薄くなる。


 ぱんっ――!


 鏡が割れた。破片が畳に散らばり、水滴のような音を立てる。


 だが――何も出てこない。


 空洞。湿った匂いだけが、部屋に残る。


 透は息を呑む。


 そのとき。背後で、畳がきしんだ。


 ぎ……


 振り返る。そこに、立っている。透と同じ形。だが――濃い。白い目が、濡れた光を帯びている。影は、ゆっくりと首を傾けた。


 口が、開く。


 ――おかえり。


 胸の奥が、静かに沈んだ。

 恐怖よりも先に、妙な安堵が広がる。

「戻るべき場所に戻った」という感覚が、足元からじわりと満ちていく。

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