川底の家 第13話
川の音が、家の壁を震わせるほど近くに聞こえていた。
透は窓の外を見たまま、呼吸を忘れていた。
川底の家は――水面から半身を出していた。
屋根の半分、壁の上部、そして窓。
まるで、長い眠りから覚めた古い家が、ゆっくりと地上へ戻ってくるかのように。
水が家の周囲で渦を巻き、泡が弾ける。
その音は、呼吸のようにも聞こえた。
透は喉を鳴らした。
「……なんで……こんな……」
そのとき、背後で畳がきしんだ。
ぎ……ぎ……
透は振り返った。
廊下の奥から、濡れた足跡がゆっくりと増えていく。
誰も歩いていないのに、足跡だけが“前へ進んでいる”。
透は息を呑んだ。
「……やめろ……来るな……」
足跡は、透の寝室へ向かっていた。
昨日よりも濃く、昨日よりも大きい。
まるで、影の“足”が形を取り戻しているかのように。
透は寝室の襖を開けた。
布団の上には、昨日と同じ濡れた跡。
だが、今日は――枕がわずかに沈んでいた。
まるで、誰かがそこに頭を乗せていたかのように。
透は喉を鳴らした。
「……俺の……場所に……?」
その瞬間、頭の奥に別の記憶が流れ込んできた。
幼い自分が眠っている。
その横に、黒い影が横たわっている。
白い点が二つ、暗闇の中で光っている。
影が、自分の呼吸に合わせて胸を上下させている。
透は頭を抱えた。
「……違う……こんな記憶……俺は知らない……!」
だが、記憶は鮮明だった。
まるで、ずっと忘れていた“本当の記憶”が戻ってきたかのように。
透はふらつきながら立ち上がり、祖父の部屋へ向かった。
鏡の前に立つ。
鏡の奥は濁り、揺れ、まるで水の底のように波打っている。
その奥で――“透自身”が立っていた。
だが、鏡の中の透は、昨日よりも“はっきり”している。
輪郭が濃く、目の奥の白い光が強い。
まるで、透の方が影で、鏡の中の方が本物であるかのように。
透は震える声で呟いた。
「……俺……薄くなってる……?」
鏡の中の透は、ゆっくりと手を上げた。
その動きは、透が手を上げるよりも滑らかで、迷いがない。
透は後ずさった。
そのとき――川の方から、低い音が響いた。
ごぼ……ごぼ……ぼこ……
透は窓へ駆け寄った。
川底の家が、さらに浮かび上がっていた。
壁の半分以上が水面から出ている。
窓の奥の影が、ゆっくりと立ち上がった。
白い点が二つ、透を見つめている。
透の頭の奥に、声が響いた。
――お前の場所は、そこじゃない。
――お前は、こっちにいた。
透は息を呑んだ。
「……俺は……ここに……?」
影の白い点が揺れた。
まるで、肯定するように。
その瞬間、透の胸の奥で“何か”が外れる音がした。
記憶がひとつ、またひとつと抜け落ちていく。
代わりに、影の記憶が流れ込んでくる。
透は壁に手をついた。
「……やめろ……俺の記憶……返せ……!」
だが、影の声は静かに囁いた。
――返すよ。
――お前が“戻る”なら。
透は窓の外を見た。
川底の家は、もう“底”にはなかった。
水面に浮かび、こちらへ近づいている。
川の音が、家の壁を震わせるほど近くに聞こえていた。
透は窓へ駆け寄り、息を呑んだ。
川底の家が、岸へ向かって“動いていた”。
水面に浮かぶ家が、ゆっくりと、しかし確実にこちらへ近づいている。
水の抵抗を受けているはずなのに、揺れはほとんどない。
まるで、水の上を滑るように進んでいる。
透は喉を鳴らした。
「……来るな……来るなよ……」
だが、家は止まらない。
窓の奥の影が、ゆっくりと立ち上がる。
白い点が二つ、透を見つめている。
その白い点は、昨日よりも“人間の目”に近い形をしていた。
透は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
そのとき――背後で、畳がきしんだ。
ぎ……ぎ……
透は振り返った。
廊下の奥から、濡れた足跡がゆっくりと増えていく。
誰も歩いていないのに、足跡だけが“前へ進んでいる”。
透は息を呑んだ。
「……やめろ……来るな……」
足跡は、祖父の部屋の前で止まった。
だが、今日はそこで終わらなかった。
足跡は、ゆっくりと――祖父の部屋の襖を押した。
ぎ……
襖が、わずかに開いた。
透は凍りついた。
誰も触れていないのに、襖が開いている。
透は震える声で呟いた。
「……入って……きてる……」
祖父の部屋の中は薄暗い。
鏡の表面は濁り、揺れ、まるで水の底のように波打っている。
その奥で――“透自身”が立っていた。
だが、鏡の中の透は、昨日よりも“濃い”。
輪郭がはっきりし、目の奥の白い光が強い。
まるで、透の方が影で、鏡の中の方が本物であるかのように。
透は喉を鳴らした。
「……俺……薄くなってる……?」
鏡の中の透は、ゆっくりと手を上げた。
その動きは、透が手を上げるよりも滑らかで、迷いがない。
透は後ずさった。
その瞬間――頭の奥に、別の記憶が流れ込んできた。
祖父が透を抱き上げている。
透は泣いている。
川の中。
水の底。
白い点。
黒い影が透を抱えている。
祖父の手が届かない。
透は頭を抱えた。
「……違う……これは……俺の記憶じゃない……!」
だが、記憶は鮮明だった。
まるで、ずっと忘れていた“本当の記憶”が戻ってきたかのように。
透は壁に手をついた。
呼吸が浅い。
胸の奥に冷たい水が溜まっていくような感覚。
そのとき――川の方から、低い音が響いた。
ごぼ……ごぼ……ぼこ……
透は窓へ駆け寄った。
川底の家が、岸のすぐ手前まで来ていた。
水面に浮かぶ家の窓の奥で、影がゆっくりと手を上げる。
透の頭の奥に、声が響いた。
――お前の場所は、そこじゃない。
――お前は、こっちにいた。
透は震える声で呟いた。
「……俺は……ここに……?」
影の白い点が揺れた。
まるで、肯定するように。
その瞬間、透の胸の奥で“何か”が外れる音がした。
記憶がひとつ、またひとつと抜け落ちていく。
代わりに、影の記憶が流れ込んでくる。
透は壁に手をついた。
「……やめろ……俺の記憶……返せ……!」
だが、影の声は静かに囁いた。
――返すよ。
――お前が“戻る”なら。
透は息を呑んだ。
川底の家は、もう“岸”に触れようとしていた。
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