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ホラー短編集  作者: 倉木元貴


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川底の家 第12話

 翌朝、透は強い眩暈とともに目を覚ました。

 布団の中で息を整えようとするが、胸の奥に冷たい水が溜まっているような重さが消えない。


「……夢じゃ……ないよな」


 昨夜の光景が、脳裏に焼き付いて離れない。

 川底の家が水面を破り、影が透と同じ形をして立っていた。

 あの白い点――あれは、確かに“目”だった。


 透はふらつきながら立ち上がり、窓へ向かった。

 カーテンを開けた瞬間、息が止まった。


 川底の家は、まだ水面に浮かんでいた。


 夜の幻ではない。

 朝の光の中でも、家は確かにそこにある。

 水面に半ば沈みながら、静かに佇んでいる。


 壁の色は灰色で、屋根は黒ずんでいる。

 窓は四角く、まるで“目”のようにこちらを向いていた。


 透は喉を鳴らした。


「……なんで……消えてない……」


 川は浅い。

 本来なら、家が沈むほどの深さはない。

 なのに、家はそこにある。

 水の奥から浮かび上がってきたように。


 透が窓に近づくと、家の“窓”がわずかに揺れた。

 まるで、透の動きを追っているかのように。


 透は背筋に冷たいものが走るのを感じた。


 そのとき――背後で、畳がきしむ音がした。


 透は振り返った。


 誰もいない。

 だが、床に――濡れた足跡がひとつだけ残っていた。


 昨日と同じ、家の中へ向かう足跡。

 だが、昨日よりも“形がはっきりしている”。


 透は息を呑んだ。


「……影が……入ってきてる……?」


 足跡は祖父の部屋の前で止まっていた。

 透は襖に手をかける。

 指先が震える。


 ゆっくりと襖を開ける。


 部屋の中は静かだった。

 だが、鏡の表面に走っていた亀裂が、昨夜よりも広がっている。

 まるで、内側から押し破ろうとしているように。


 透は鏡に近づいた。


 鏡の奥は濁り、揺れ、まるで水の底のように波打っている。

 その濁りの奥で――

 “透自身”が立っていた。


 透は息を呑んだ。


 鏡の中の透は、透と同じ顔をしている。

 だが、表情が違う。

 鏡の中の透は、わずかに口角を上げていた。


 笑っている。


 透は後ずさった。


「……やめろ……俺じゃない……!」


 鏡の中の透は、透よりも一拍遅れて動く。

 だが、その動きは透よりも滑らかで、迷いがない。

 まるで、透よりも“透らしい”。


 そのとき――川の方から、低い音が響いた。


 ごぼ……ごぼ……


 透は窓へ駆け寄った。


 川底の家が、ゆっくりと揺れている。

 水面に浮かぶ家の窓の奥で、黒い影が立ち上がった。


 白い点が二つ、透を見つめている。


 透の頭の奥に、声が響いた。


 ――お前は、まだ“上”にいるのか。


 透は息を呑んだ。


 影の声は、まるで透自身の声が水の底で反響しているようだった。


 ――お前は、まだ“上”にいるのか。


 その声が頭の奥で反響した瞬間、透は窓から離れた。

 足が震えている。

 胸の奥に冷たい水が溜まっていくような感覚が、また戻ってきていた。


「……上って……なんだよ……」


 問いかけても、影は答えない。

 ただ、川の音だけが家の中に響いている。


 透は深呼吸し、祖父の部屋へ戻った。

 鏡の前に立つのは怖かったが、目を逸らすこともできなかった。


 鏡の表面は濁り、揺れ、まるで水面のように波打っている。

 その奥で――“透自身”が立っていた。


 だが、鏡の中の透は、透よりも“はっきり”している。

 輪郭が濃く、目の奥に白い光が宿っている。

 まるで、透の方が影で、鏡の中の方が本物であるかのように。


 透は喉を鳴らした。


「……俺は……俺だよな……?」


 鏡の中の透は、ゆっくりと首を傾けた。

 その動きは、透が首を傾けるよりも滑らかで、迷いがない。


 透は後ずさった。


 そのとき――

 廊下の奥から、水滴が落ちる音がした。


 ぽた……ぽた……


 透は振り返った。

 廊下の床に、水滴が点々と落ちている。

 昨日よりも濃く、昨日よりも多い。


 透は足跡を追った。

 足跡は、家の奥へ向かっている。

 祖父の部屋ではなく――透の寝室へ。


 透は息を呑んだ。


「……なんで……俺の部屋に……」


 足跡は寝室の前で止まっていた。

 透は襖に手をかける。

 指先が震える。


 ゆっくりと襖を開ける。


 部屋の中は静かだった。

 だが、布団の上に――濡れた跡が残っていた。


 まるで、誰かがそこに座っていたかのように。


 透は喉を鳴らした。


「……入ってきてる……完全に……」


 その瞬間、頭の奥に別の記憶が流れ込んできた。


 幼い自分が布団で眠っている。

 その横に、黒い影が座っている。

 白い点が二つ、自分を見下ろしている。

 冷たい手が、額に触れる。


 透は頭を抱えた。


「……違う……こんな記憶……ない……!」


 だが、記憶は鮮明だった。

 まるで、ずっと忘れていた本当の記憶が戻ってきたかのように。


 透はふらつきながら立ち上がり、窓へ向かった。


 川底の家は、朝の光の中でゆっくりと揺れている。

 水面に浮かぶ家の壁が、呼吸するように膨らんだり縮んだりしている。


 透は息を呑んだ。


「……呼吸……してる……?」


 窓の奥の影が、ゆっくりと立ち上がった。

 白い点が二つ、透を見つめている。


 透の頭の奥に、声が響いた。


 ――思い出してきたな。

 ――お前は、ここにいた。


 透は震える声で呟いた。


「……俺は……ここに……?」


 影の白い点が揺れた。

 まるで、肯定するように。


 その瞬間、透の胸の奥で“何か”が外れる音がした。


 記憶がひとつ、またひとつと抜け落ちていく。

 代わりに、影の記憶が流れ込んでくる。


 透は壁に手をついた。


「……やめろ……俺の記憶……返せ……!」


 だが、影の声は静かに囁いた。


 ――返すよ。

 ――お前が“戻る”なら。


 透は息を呑んだ。


 川底の家が、ゆっくりと水面を押し広げていた。

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