川底の家 第11話
――お前は、ここにいた。
その声が頭の奥で響いた瞬間、透の視界が白く弾けた。
まぶたの裏に、別の景色が流れ込んでくる。
川の底。
暗闇。
冷たい水。
白い点。
沈む。
息ができない。
祖父の叫び声。
伸ばされた手。
届かない。
透は叫び声を上げ、床に倒れ込んだ。
胸が苦しい。
呼吸が浅い。
まるで、肺の中に水が流れ込んでいるような感覚。
「……違う……これは……俺の記憶じゃない……!」
だが、頭の奥で別の声が囁く。
――違わない。
――お前は一度、沈んだ。
――忘れただけだ。
透は頭を振った。
だが、記憶は止まらない。
影が透の記憶を“上書き”しているのがわかった。
ふと、窓の外が暗くなった。
透は顔を上げた。
川底の家が――水面すれすれまで浮かび上がっていた。
水の揺らぎの中に、家の輪郭がはっきりと浮かぶ。
壁も、屋根も、窓も、歪みなく形を取り戻している。
まるで、長い間沈んでいたものが、ようやく呼吸を始めたかのように。
透は震える声で呟いた。
「……なんで……こんなに近い……」
川は深くない。
本来なら、家が沈むほどの深さはない。
なのに、影の家は“底”から浮かび上がり、水面に触れようとしている。
窓の奥の黒い影が、ゆっくりと顔を上げた。
白い点が二つ、透を見つめている。
透は息を呑んだ。
影の輪郭は、昨日よりもさらに“人間の形”に近い。
肩幅も、腕の長さも、首の角度も――透自身の体格とほとんど同じだった。
「……俺の形を……完全に……」
影がゆっくりと手を上げた。
その動きは、透が震える手を胸に当てた動きと“ほぼ同じ”だった。
だが、影の動きの方がわずかに滑らかで、迷いがない。
まるで、透よりも“透らしい”。
透は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
そのとき――祖父の部屋の方から、紙が擦れる音がした。
透はふらつきながら部屋へ戻った。
遺品の箱の中で、一枚の紙が風もないのにめくれている。
透はその紙を手に取った。
それは、祖父が最後に書いたと思われる走り書きだった。
「透へ。影が“お前の形”を揃えたとき、お前は影と入れ替わる」
透は息を呑んだ。
「影は、お前の記憶を奪い、お前の形を真似お前の声を覚え、お前の代わりに“上へ”出てくる」
透の手が震えた。
「……代わりに……?」
紙の最後には、震える字でこう書かれていた。
「透。もし影が水面を破ったら、お前は“下へ”戻る」
透は窓の外を見た。
川底の家は、もう水面に触れていた。
窓の奥の影が、ゆっくりと手を伸ばす。
透の頭の奥に、声が響いた。
――戻ってこい。
――お前の場所は、ここだ。
透は震える声で呟いた。
「……俺の……場所……?」
影の白い点が揺れた。
まるで、微笑んでいるように。
川の音が、家の中にまで響いていた。
まるで、玄関のすぐ外を川が流れているかのような轟音。
透は窓へ駆け寄り、息を呑んだ。
川底の家が、水面を破ろうとしていた。
水の揺らぎの中で、家の屋根がわずかに浮き上がっている。
壁の輪郭は完全に形を取り戻し、窓の奥の影は透と同じ背丈、同じ肩幅、同じ首の角度をしていた。
透は震える声で呟いた。
「……なんで……俺と……同じ……」
影はゆっくりと顔を上げた。
白い点が二つ、透を見つめている。
その白い点は、昨日よりも“人間の目”に近い形をしていた。
透は胸を押さえた。
心臓が強く脈打つ。
だが、その鼓動さえも“自分のものではない”ように感じられた。
そのとき――鏡の方から、乾いた音がした。
ぱきん。
透は振り返った。
鏡に走っていた細い亀裂が、さらに広がっている。
まるで、内側から押し広げられているように。
透は鏡へ近づいた。
鏡の奥は濁り、揺れ、まるで水の底のように波打っている。
その濁りの奥で――“透自身”が立っていた。
透は息を呑んだ。
鏡の中の“透”は、透と同じ顔をしていた。
だが、表情が違う。
鏡の中の透は、わずかに口角を上げていた。
笑っている。
透は後ずさった。
「……やめろ……俺じゃない……!」
鏡の中の透は、透よりも一拍遅れて動く。
だが、その動きは透よりも滑らかで、迷いがない。
まるで、透よりも“透らしい”。
影が透の形をほぼ完全に模倣しているのがわかった。
そのとき――川の音が急に止んだ。
透は窓の外を見た。
川底の家が、完全に水面を破っていた。
屋根が水面から突き出し、壁がゆっくりと浮かび上がる。
水が家の周囲で渦を巻き、まるで“生き物”のように蠢いている。
窓の奥の影が、ゆっくりと手を上げた。
透の頭の奥に、声が響いた。
――もうすぐだ。
――お前は、ここに帰る。
透は震える声で呟いた。
「……俺は……生きてる……よな……?」
影の白い点が揺れた。
まるで、否定するように。
透は胸を押さえた。
心臓の鼓動が、急に遠く感じられる。
まるで、自分の体が“薄くなっていく”ような感覚。
そのとき――祖父の部屋の方から、紙がひらりと舞い上がった。
透はふらつきながら拾い上げた。
それは、祖父が最後に残した言葉だった。
「透。影が水面を破ったら、お前は“上”にいない」
透は息を呑んだ。
窓の外では、川底の家がゆっくりと水面から姿を現していた。
影が、透と同じ形をした影が、窓の奥で微笑んでいる。
透の頭の奥に、最後の声が響いた。
――おかえり。
透は立ち尽くしたまま、声を失った。
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