川底の家 第10話
――返してほしいのは、お前の方だろ。
その声が頭の奥に響いた瞬間、透は玄関の戸を閉めた。
背中に冷たい汗が流れる。声は確かに自分の声に似ていた。だが、抑揚も温度も違う。まるで、別の場所から“透の声を真似ている”ような響きだった。
透は震える手で額を押さえた。
「……俺の方……?」
返してほしい記憶があるのは、自分ではなく“影”の方だと言うのか。
だが、影が何を求めているのか、透にはわからない。
ふと、祖父の部屋の方から風が吹いたような気配がした。
戸は閉まっているはずなのに、空気が揺れている。
透は恐る恐る部屋へ戻った。
祖父の遺品の箱の中に、まだ開けていない小さな木箱があった。
昨日は気づかなかった。
あるいは、昨日は“なかった”のかもしれない。
木箱の蓋には、古い墨でこう書かれていた。
「透が見てはいけないもの」
透は息を呑んだ。
「……なんだよ、それ……」
蓋を開けると、中には古いカセットテープが一つだけ入っていた。
ラベルには祖父の字でこう書かれている。
「記録。透が川に落ちた日のこと」
透の心臓が強く跳ねた。
「……録音……?」
祖父はあの日のことを録音していたのか。
だが、なぜそんなものを残したのか。
透はカセットを手に取り、部屋の隅に置かれた古いラジカセに差し込んだ。
再生ボタンを押す。
しばらく雑音が続いたあと、祖父の声が聞こえた。
「透が……川に……」
音が途切れる。
雑音が混じる。
「……引きずられ……影が……」
また途切れる。
透は耳を近づけた。
「……透は……一度……死んで……」
透は息を呑んだ。
「……死んで……?」
雑音が激しくなり、声がかき消される。
だが、次の瞬間、別の声が録音の中から響いた。
「おかえり」
透はラジカセを落とした。
録音の中の声は、祖父の声ではなかった。
透自身の声でもなかった。
あの夜、川の底から聞こえた声と同じだった。
透は震える手でラジカセを止めた。
だが、止めたはずのラジカセから、まだ音が聞こえる。
「透。思い出せ。お前は……」
透はラジカセを引き抜いた。
電源が切れ、音は止まった。
だが、頭の奥では別の記憶が浮かび上がっていた。
水の底。
暗闇。
白い点。
冷たい腕。
沈む。
息ができない。
祖父の手が伸びてくる。
でも、その手は届かない。
透は頭を抱えた。
「……違う……俺は助かった……助かったはずだ……!」
だが、記憶は揺れている。
本当に助かったのか。
それとも――
透は窓へ駆け寄った。
川底の家は、昨日よりもさらに“はっきり”していた。
水の奥に沈んでいるはずなのに、まるで水の抵抗を受けていないかのように輪郭が鮮明だ。
窓の奥の黒い影が、ゆっくりと顔を上げた。
白い点が二つ、透を見つめている。
透は震える声で呟いた。
「……俺の記憶……返せよ……」
その瞬間、影の白い点が揺れた。
――返すよ。
――お前が“戻ってくる”なら。
透は息を呑んだ。
影の声は、まるで透自身の声が水の底で反響しているようだった。
――返すよ。
――お前が“戻ってくる”なら。
影の声が頭の奥で反響した瞬間、透の視界がぐらりと揺れた。
膝が崩れ、玄関の土間に手をつく。
呼吸が浅くなる。
胸の奥に、冷たい水が流れ込んでくるような感覚。
「……戻るって……どこに……」
問いかけても、影は答えない。
ただ、川の音だけが家の中に響いている。
透は立ち上がり、ふらつく足取りで祖父の部屋へ戻った。
遺品の箱の中に、まだ何かある気がした。
“見つけなければならないもの”があるような、そんな焦燥感が胸を締めつける。
箱の底に、薄い紙切れが一枚貼り付いていた。
透は指先でそっと剥がした。
それは、祖父の走り書きだった。
「透へ。影は“記憶の隙間”に入り込む。忘れた記憶を埋めるふりをして、本当はお前を“影の記憶”に書き換える」
透は息を呑んだ。
「……書き換える……?」
紙には続きがあった。
「影が見せる記憶は、お前のものではない。影が欲しがっているのは、お前の“形”だ。形が揃えば、影はお前になる」
透の背筋に冷たいものが走った。
「……俺になる……?」
昨日、鏡の中の“自分”が一拍遅れて動いた。
あれは、影が透の形をなぞっていたのだ。
透は鏡を見た。
鏡の奥は曇り、揺れ、まるで水の底のように濁っている。
その濁りの奥で、白い点が二つ、透を見つめていた。
透は鏡から目を逸らし、窓の外を見た。
川底の家は、昨日よりもさらに“水面に近い”。
水の奥に沈んでいるはずなのに、まるで浮かび上がってきているように見える。
壁の輪郭は鮮明で、屋根の影もはっきりしている。
そして、窓の奥の黒い影は――昨日よりも“人間の形”に近づいていた。
肩の位置。
腕の長さ。
首の角度。
どれも、透自身の体格に似ている。
透は震える声で呟いた。
「……俺の形を……真似してる……」
その瞬間、頭の奥に別の記憶が流れ込んできた。
祖父の手が伸びてくる。
でも、その手は届かない。
水の底で、黒い影が自分を抱えている。
白い点が二つ、近づいてくる。
息ができない。
暗闇。
透は頭を抱えた。
「……違う……これは……俺の記憶じゃない……!」
だが、記憶は止まらない。
影が透の記憶に入り込み、書き換えているのがわかった。
透は祖父の走り書きを握りしめた。
「影が水面に近づいたら、透、お前は“二度目の川底”に呼ばれる」
透は窓の外を見た。
川底の家は、もう“底”にはなかった。
水面のすぐ下に、はっきりとその形を浮かべている。
窓の奥の影が、ゆっくりと手を上げた。
透の頭の奥に、声が響いた。
――もうすぐだ。
――お前は、ここにいた。
透は息を呑んだ。
「……俺は……ここに……?」
影の白い点が揺れた。まるで、肯定するように。
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