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ホラー短編集  作者: 倉木元貴


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川底の家 第9話

 翌朝、透はひどい倦怠感とともに目を覚ました。

 体が重い。まるで、夜のあいだに何かに押しつぶされていたような疲労が残っている。


 布団から起き上がると、部屋の空気がひどく冷たかった。

 窓は閉まっている。外は晴れている。なのに、家の中だけが冬のように冷え込んでいた。


 透は頭を押さえた。

 昨日の記憶が曖昧だ。

 鏡の影。

 川底の家。

 白い点。

 声。


 ――おかえり。


 その声だけが、耳の奥にこびりついて離れない。


 透はふらつく足取りで祖父の部屋へ向かった。

 日記の続きを読まなければならない気がした。

 何か、大事なことが書かれているような気がした。


 襖を開けると、部屋の中は昨日よりも散らかっていた。

 床に落ちた水滴の跡は乾いているが、畳の色がわずかに濃く残っている。

 鏡は壁に立てかけられたまま、曇った表面に薄い光を反射していた。


 透は鏡を見ないようにしながら、祖父の遺品の箱を開けた。

 古い手帳や写真、メモが雑然と詰め込まれている。


 その中に、ひときわ古びた封筒があった。

 茶色く変色し、角が擦り切れている。封筒の表には、祖父の字でこう書かれていた。


「透へ。大きくなったら開けなさい」


 透は息を呑んだ。


「……俺、こんなの……もらった覚えがない」


 封筒を手に取ると、紙がかすかに震えた。

 中には、手紙と写真が数枚入っていた。


 まず手紙を開く。


「透へ。お前は覚えていないだろうが、幼い頃、一度“川に呼ばれた”ことがある」


 透は喉を鳴らした。

 昨日の日記と同じ言葉だ。


 手紙は続く。


「あの日、お前は川に落ちた。水の底で、お前を抱えていた“影”がいた。私はお前を引き上げたが、影はお前を手放していない」


 透は手紙を握りしめた。

 胸の奥がざわりと揺れる。


「影は、お前の形を覚えている。お前の記憶を覚えている。お前が戻ってくるのを待っている」


 透は息を呑んだ。


「……戻ってくる……?」


 手紙の最後には、震える字でこう書かれていた。


「透。もし“影”が形を取り戻し始めたら、お前は一度、川に呑まれているのかもしれない」


 透は手紙を落とした。


「……どういう意味だよ……」


 そのとき、封筒の中の写真が目に入った。

 透は震える手で写真を取り出した。


 そこには――幼い透が川辺で笑っている姿が写っていた。


 だが、その透の“背後”に、黒い影が立っていた。

 白い点が二つ、幼い透を見つめている。


 透は写真を落とした。


「……嘘だ……こんなの……覚えてない……」


 その瞬間、鏡の奥で何かが揺れた。


 透は反射的に鏡を見た。

 鏡の中の“自分”が、透よりも一拍遅れて瞬きをした。


 そして、鏡の奥の白い点が――ゆっくりと笑ったように見えた。透は落とした手紙を拾い上げた。震える指先で紙を裏返すと、そこにも文字が書かれていた。


「透へ。もしこの手紙を読む日が来たなら、“影”はもう形を取り戻し始めている」


 透は息を呑んだ。


「影は、お前の記憶を食う。記憶が薄れれば薄れるほど、影は濃くなる。影が完全に形を取り戻したとき――お前は二度目の“川底”へ戻る」


 透の胸の奥がざわりと揺れた。


「……二度目……?」


 頭の奥に、またあの冷たい感覚が広がる。

 水の底。

 暗闇。

 白い点。

 冷たい腕。


 透は頭を振った。


「違う……俺は……助かったんだ……」


 だが、記憶は曖昧だ。

 幼い頃の記憶は、まるで霧の中に沈んでいるようにぼやけている。


 透は封筒の中のもう一枚の紙を取り出した。

 それは、祖父の手帳から破り取られたページのようだった。


「影は“透の形”を真似る。透の記憶を奪い、透の動きをなぞり、やがて透と同じ顔になる」


 透は喉を鳴らした。


「……鏡の中の“俺”……」


 昨日、鏡の中の自分が一拍遅れて動いた。

 あれは、ただの錯覚ではなかったのかもしれない。


 ページの続きには、さらに不穏な言葉が並んでいた。


「影は、透の“抜け落ちた記憶”を埋めようとする。だが、それは本当の記憶ではない。影が見せる偽りの記憶だ」


 透は息を呑んだ。


「……じゃあ……昨日の“あの映像”も……?」


 水の底で黒い影に抱えられていた記憶。

 あれは本当に自分の記憶なのか。それとも、影が見せた偽りなのか。


 透は頭を押さえた。

 記憶が混ざり合い、どれが本物でどれが偽物なのか、わからなくなっていく。


 そのとき――部屋の隅で、何かが“ぱちん”と弾けるような音がした。


 透は振り返った。


 鏡の表面に、細い亀裂が走っていた。まるで、内側から押されたような亀裂。


 透は鏡へ近づいた。

 鏡の奥は曇り、揺れ、まるで水の底のように濁っている。


 その濁りの奥で――白い点が二つ、透を見つめていた。

 透は後ずさった。


「……やめろ……来るな……!」


 鏡の奥の影が、ゆっくりと手を上げた。

 その動きは、透が後ずさるたびに“前へ”にじり寄る。


 透は部屋を飛び出した。廊下を走り、玄関へ向かう。


 だが、玄関の戸を開けた瞬間――透は息を呑んだ。


 川の音が、家のすぐ目の前から聞こえていた。


 川は家から離れているはずだ。

 なのに、今はまるで玄関のすぐ外を流れているかのような轟音。


 透は恐る恐る外を覗いた。


 川は、いつも通りの場所にあった。

 だが、水の奥に浮かぶ“家の影”は、昨日よりもはっきりしている。


 壁も、屋根も、窓も。そして、窓の奥の黒い影も。

 透は震える声で呟いた。


「……俺の記憶が……奪われてる……」


 その瞬間、頭の奥に声が響いた。


 ――返してほしいのは、お前の方だろ。


 透は息を呑んだ。

 その声は、まるで“透自身の声”のように聞こえた。

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