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ホラー短編集  作者: 倉木元貴


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川底の家 第8話

 透は窓へ駆け寄った。


 川底の家は、完全に“形”を取り戻していた。

 水の奥で、静かに佇んでいる。その窓の奥で、黒い影がゆっくりと手を上げた。


 透の頭の奥に、声が響いた。


 ――おかえり。


 透の心臓が止まりそうになった。

 その声は、まるで“透自身の声”のように聞こえた。


(俺の声……?)

(影の声……?)

(どっちが……どっちなんだ……)


 胸の奥で、何かがゆっくりと剥がれ落ちていく。

 透の頭の奥に響いた声――


 ――おかえり。


 その瞬間、透の胸の奥がぎゅっと掴まれたように縮んだ。

 息が止まり、肺が空気を拒む。喉がひゅっと鳴り、身体が硬直する。


(今の……俺の声……?)

(いや……違う……でも……)


 声の響きは、確かに透自身の声色だった。

 だが、そこには透の知らない“深さ”と“湿り気”が混ざっている。まるで、水の底から響いてくるような、重く、冷たい声。

 透の心臓が、どくん、と大きく脈打つ。その鼓動が、自分のものではないように感じられる。胸の奥で、別の何かが脈打っているような錯覚。


(俺の声が……俺を呼んでる……?)

(そんなわけ……あるか……)


 否定しようとするたび、胸の奥がざわりと揺れる。否定すればするほど、心のどこかが“肯定”してしまう。


 影の手が、水の奥からゆっくりと伸びてくる。その動きは、透の心臓の鼓動と同じリズムで揺れていた。


 透は後ずさり、壁に背中を押しつけた。

 逃げ場がない。部屋の空気が重く、湿っていく。呼吸をするたび、肺の中に冷たい水が流れ込んでくるような感覚。


「……やめろ……来るな……!」


 声を張り上げたつもりなのに、喉から漏れたのは震えた息だけだった。

 自分の声が、自分の意思から離れていく。声帯が、自分以外の何かに支配されているような感覚。


 影は動きを止めた。

 だが、窓の奥の白い点――“目”だけが、透をじっと見つめている。


 その視線が、透の皮膚を通り抜け、骨の奥へと沈んでいく。

 心臓の裏側に触れられたような、冷たい感触。


(やめろ……俺の中に……入ってくるな……)


 透は胸を押さえた。

 心臓の鼓動が乱れ、身体の境界が曖昧になる。自分の輪郭が、じわじわと溶けていくような感覚。


 川の音が、さらに大きくなる。

 轟音が家の中を満たし、床が震える。

 だが、外の川は静かなままだ。


(音が……俺の頭の中に……)

(川が……俺の中に流れ込んで……)


 透の視界が揺れ、色が滲む。

 世界の輪郭が歪み、部屋の中の空気が水のように重くなる。


 影の声が、再び響いた。


 ――おかえり。


 今度は、はっきりと透自身の声だった。

 抑揚も、息の混ざり方も、幼い頃から聞き慣れた自分の声そのもの。


 透の胸の奥が、ぞくりと震えた。

 恐怖と同時に、説明できない“懐かしさ”が込み上げる。


(なんで……俺の声なんだ……)

(なんで……こんなに……懐かしい……)


 影の声が、透の記憶の奥にある“何か”を撫でるように響く。

 忘れていたはずの感情が、胸の奥でゆっくりと目を覚ます。


 ――おかえり。


 その声が、透の心臓の鼓動と重なった。


 透は震える唇で呟いた。


「……俺……は……」


 言葉が続かない。

 自分が何を言おうとしているのか、自分でもわからない。

 思考が霧に包まれ、意識が水の底へ沈んでいく。


 影の白い点が、ゆっくりと近づいた。

 透の胸の奥で、何かが“ほどける”音がした。


(俺は……誰だ……?)


 影の白い点が、ゆっくりと近づいてくる。

 その動きに合わせて、透の胸の奥で“何か”がほどけていく。


(俺は……誰だ……?)


 その問いが、透の中で何度も反響する。

 だが、答えは返ってこない。

 返ってくるのは――川の音だけだ。


 轟音が、頭蓋の内側を満たしていく。

 外の川は静かなのに、透の頭の中だけが水で満たされていく。


(やめろ……やめてくれ……)


 心の中で叫んでも、声にならない。

 喉が動かない。

 声帯が、自分の意思を拒んでいる。


 代わりに――胸の奥から、別の声がゆっくりと浮かび上がる。


 ――おかえり。


 その声は、透の声だった。

 だが、透の意思ではない。

 透の声を使って、別の“何か”が喋っている。


 透の背中に冷たい汗が流れた。

 身体の境界が曖昧になり、手足の感覚が薄れていく。

 まるで、自分の身体が“借り物”になったような感覚。


(俺の声を……返せ……)


 心の中で叫んでも、声は出ない。

 代わりに、胸の奥からまた声が漏れる。


 ――ずっと、待っていた。


 透の唇が、勝手に動いた。

 自分の意思とは無関係に、言葉が形を成していく。


「……ま……っ……て……」


 違う。

 言いたい言葉じゃない。

 止めたいのに、止まらない。


 影の白い点が、透の目の奥を覗き込むように揺れた。

 その瞬間、透の視界がぐにゃりと歪む。


 部屋の壁が、水の中のように揺れ、床が遠ざかり、自分の身体が軽くなる。


(俺……溶けてる……?)


 恐怖が、遅れてやってくる。

 だが、その恐怖さえも、どこか他人事のように感じられる。


 影の声が、透の頭の奥で囁く。


 ――もう、離れなくていい。


 透の胸の奥が、じんわりと温かくなる。

 それは安心にも似た感覚だった。だが、その温かさが“自分のものではない”ことに気づいた瞬間、背筋が凍りつく。


(違う……これは……俺じゃない……)


 透は必死に自分の名前を思い出そうとした。“透”という音を心の中で繰り返す。だが、その音がだんだんと薄れていく。


 透

 とおる

 トオル

 ……誰だ?


 胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちた。


 影の白い点が、透の目の前まで近づく。その距離は、もう“鏡越し”ではなかった。鏡の表面が水のように揺れ、影の輪郭が透の世界へ滲み出してくる。


 透の心臓が、影の鼓動と同じリズムで脈打ち始めた。

 二つの鼓動が、ゆっくりと重なっていく。


(やめろ……俺は……俺は……)


 その“俺”という言葉の意味が、もう曖昧だ。

 自分の輪郭が、影の輪郭と重なり始める。


 影の声が、透の耳元で囁いた。


 ――もう、ひとりじゃない。


 透の胸の奥で、最後の抵抗がかすかに震えた。

 だが、その震えはすぐに水の中へ沈んでいく。


 影の白い点が、透の瞳の奥へと吸い込まれるように近づいた。


 透の意識が、ゆっくりと――水の底へ沈んでいく。

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