川底の家 第7話
透の背筋が凍りついた。
心臓が一瞬止まり、次の鼓動が来るまでの間が異様に長く感じられる。
胸の奥が空洞になったような、重力が消えたような感覚。
(来る……)
(本当に……来る……)
透は反射的に後ずさった。
足がもつれ、壁に背中をぶつける。
その痛みさえ、遠くの出来事のように感じられた。
「……来るな……!」
声を張り上げたつもりなのに、喉から漏れたのはかすれた悲鳴だった。
自分の声が、自分の意思とは別の方向へ逃げていくような感覚。
影は動きを止めた。
だが、鏡の奥の“窓”の形が、さっきよりもはっきりしている。
まるで、川底の家が鏡の中で“形を取り戻している”ようだった。
(なんで……?)
(なんで、こんなに……はっきり……)
透は鏡から目を逸らし、窓の外を見た。
川底の影は、昼間にもかかわらず濃く浮かび上がっていた。
水の揺らぎに合わせて、家の輪郭がゆっくりと歪む。
だが、その歪みは水の流れとは無関係だった。
透が窓に近づくと、影の“窓”が透の方へ向いた。
胸の奥が、ぞわりと逆撫でされる。
見られている。
追われている。
その確信が、透の呼吸を奪っていく。
「……なんで、俺の位置がわかるんだよ」
影は答えない。
ただ、透の動きに合わせて揺れる。
透が右へ動くと、影の窓も右へ。
左へ動くと、影も左へ。
まるで、透を“追っている”。
透の胸の奥がざわりと揺れる。
恐怖だけではない。
もっと深い、もっと古い、説明できない感情が混ざっている。
(知っている……?)
(俺のことを……?)
そのとき――
頭の奥に、また別の記憶が流れ込んできた。
祖父の声。
「透、川へ近づくな。あれはお前を覚えとる。あの日、お前は……」
透は頭を抱えた。
脳の奥が焼けるように熱く、痛む。
記憶が浮かび上がるたび、胸の奥が締め付けられる。
「……あの日って……なんだよ……!」
記憶は曖昧だ。
幼い頃、川で遊んだ記憶はある。
だが、川に落ちた記憶はない。
なのに、頭の奥に浮かぶ映像はあまりにも鮮明だった。
水の底で、黒い影が自分を抱えている。
その影の“顔”は見えない。
ただ、白い点だけがこちらを見ている。
透の喉がひゅっと鳴った。
呼吸が浅く、速くなる。
胸が苦しい。
自分の身体が、自分の意思から離れていく。
「……俺、本当に……助かったのか?」
その言葉を口にした瞬間、川底の影が大きく揺れた。
まるで、透の言葉に反応したかのように。
影の“窓”の奥に、黒い影が立ち上がる。
白い点が二つ、透を見つめている。
透は窓から離れようとした。
だが、足が動かない。
胸の奥に、強い引力のようなものを感じた。
(呼ばれてる……)
(俺を……呼んでる……?)
影は揺れた。
水の奥で、ゆっくりと手を上げる。
透の頭の中に、声が響いた。
――おいで。
透の心臓が跳ねた。
その声は、昨夜聞いた“おかえり”と同じ声だった。
影の手が、水の奥から伸びてくるように見えた。
透は後ずさり、壁に背中をぶつけた。
「……来るな……来るな……!」
影は動きを止めた。
だが、川底の家の輪郭は、さっきよりもはっきりしている。
まるで、透の記憶を吸い上げるたびに“形を取り戻している”ようだった。
透は震える声で呟いた。
「……俺の記憶……奪ってるのか……?」
その瞬間、影の白い点がわずかに揺れた。
まるで、肯定するように。
透の頭の奥で“何かが剥がれ落ちる”ような感覚がした。
記憶の断片が、ひとつ、またひとつと抜け落ちていく。
祖父と川へ行った日の記憶。
友達と遊んだ記憶。
都会へ出る前の記憶。
どれも、輪郭が曖昧になり、色が薄れ、音が消えていく。
透の胸の奥に、強い虚無感が広がった。
自分が何者なのか、どこから来たのか、何をしてきたのか――
そのすべてが、影の中へ沈んでいく。
「……やめろ……返せ……!」
透は頭を抱え、床に膝をついた。
だが、記憶は止まらない。
影が透の記憶を“吸い上げている”のがわかった。
胸の奥に、強い虚無感が広がる。
自分が何者なのか、どこから来たのか、何をしてきたのか――
そのすべてが、影の中へ沈んでいく。
透は必死に目を開け、窓の外を見た。
川底の影は、もはや“影”ではなかった。
水の奥に、はっきりとした“家”が建っている。
壁も、屋根も、窓も、歪みのない形をしている。
まるで、長い間沈んでいたものが、ようやく本来の姿を取り戻したかのように。
透の胸が、ぎゅっと締め付けられた。
その家の輪郭を見た瞬間、理由のわからない“懐かしさ”が胸を刺す。
恐怖とは別の、もっと深い感情が混ざり合い、胸の奥で渦を巻く。
(なんで……懐かしいなんて……)
(俺は……こんな家、知らないはずなのに……)
思考が揺らぎ、足元がふらつく。
自分の記憶が信用できない。
自分自身が、どこまで“自分”なのかもわからない。
透は震える声で呟いた。
「……なんで……昼間なのに……こんなにはっきり……」
影の家は、透の視線に合わせてわずかに揺れた。
窓の奥には、黒い影が立っている。
白い点が二つ、透を見つめている。
その視線が、皮膚を通り抜け、骨の奥に触れてくるような感覚。
透は胸を押さえた。
心臓が強く脈打つ。
だが、その鼓動さえも“自分のものではない”ように感じられた。
(俺の心臓……本当に俺のものか……?)
(さっきから……何かが俺の中に入り込んで……)
「……俺……本当に……助かったのか……?」
その言葉を口にした瞬間、頭の奥に強烈な痛みが走った。
視界が白く染まり、耳鳴りが響く。
水の底。
冷たい腕。
沈む。
息ができない。
暗闇。
白い点。
透は叫び声を上げた。
だが、その声は自分のものではないように聞こえた。
まるで、誰か別の人間が、自分の喉を使って叫んでいるような感覚。
痛みが引いたとき、透は床に倒れ込んでいた。
呼吸が荒い。
視界が揺れる。
手足の感覚が薄く、身体の境界が曖昧になる。
(俺……どこまでが俺なんだ……?)
(何が……消えて……何が残って……)
ふと、部屋の隅に置かれた鏡が目に入った。
鏡の中の自分が、わずかに遅れて動いている。
透の心臓が凍りついた。
背中に冷たい汗が流れ、指先が震える。
透が瞬きをすると、鏡の中の自分は一拍遅れて瞬きをした。
透が息を吸うと、鏡の中の自分は遅れて胸を上下させた。
(なんだ……これ……)
(俺じゃない……俺なのに……俺じゃない……)
「……なんだよ……これ……」
鏡の中の自分の目が、わずかに白く光った。
透は後ずさった。
足が震え、壁に手をつく。
鏡の中の“自分”は、透の動きを追うようにゆっくりと首を傾けた。
その動きは、川底の影と同じだった。
透の胸が、ひゅっと縮む。
恐怖が、身体の奥からじわじわと這い上がってくる。
(俺……本当に……俺なのか……?)
(影と……どっちが……本物なんだ……?)
透は震える声で呟いた。
「……俺……本当に……俺なのか……?」
その瞬間、川の音が家の中に響き渡った。
轟くような水音。
まるで、川が家のすぐそばまで迫ってきたかのような音。
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