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ホラー短編集  作者: 倉木元貴


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川底の家 第6話

 玄関の前に残された濡れた足跡は、ひとつだけだった。

 だが、その足跡は“外から入ってきた”ものではない。

 水滴は玄関の内側から始まり、廊下の奥へと続いている。


 透は喉を鳴らした。

 その音が、やけに大きく耳に響く。

 胸の奥がざわつき、心臓の鼓動がひとつ跳ねた。


「……誰か、入ってきたのか?」


 声に出した瞬間、自分の声が震えていることに気づく。

 否定したいのに、身体が先に“危険”を察している。

 背中に冷たい汗がじわりと滲んだ。


 だが、戸は閉まっていた。

 鍵もかかっている。

 外から侵入した形跡はない。


(じゃあ……この足跡は、どこから?)


 思考がそこで止まる。

 考えようとすると、頭の奥で何かが拒むように軋む。

 “思い出すな”と誰かに言われているような感覚。


 透は足跡を追って廊下へ進んだ。

 足跡はぽつり、ぽつりと続き、祖父の部屋の前で途切れていた。


 透は息を呑んだ。

 喉がひりつく。

 胸の奥が、ゆっくりと沈んでいくような感覚に襲われる。


 祖父の部屋――

 さっき鏡の中で影が動いた場所だ。


 襖の前に立つと、空気がひどく冷たく感じられた。

 まるで、部屋の中だけ季節が違うような寒さ。

 皮膚の表面がざわりと逆立ち、指先が自然と強張る。


(開けたくない……)

(でも、見ないわけにはいかない)


 逃げたい気持ちと、確かめたい衝動が胸の中でぶつかり合う。

 その葛藤が、透の呼吸を浅くしていく。


 透は襖に手をかけた。

 指先が震える。

 その震えが、恐怖なのか、寒さなのか、自分でも判別できない。


 ゆっくりと襖を開ける。

 部屋の中は静かだった。

 鏡は壁に立てかけられたまま、曇った表面に薄い光を反射している。

 だが、床には――


 水滴が円を描くように散っていた。

 まるで、そこに“誰かが立っていた”かのように。


 透の背筋が、ぞくりと震えた。

 寒さではない。

 “存在”の痕跡を見たときの、原始的な恐怖が身体の奥からせり上がってくる。


(ここに……誰かがいた?)

(いや、そんなはず……)


 否定の言葉が頭に浮かぶたび、胸の奥がきゅっと縮む。

 理屈では説明できない“確信”が、透の中に芽生えていた。


 透は鏡へ近づいた。

 鏡の表面は、さっきよりも濁っている。

 曇りの奥に、揺らめく影が見える。


 透は息を呑んだ。

 肺がうまく動かず、呼吸が浅くなる。

 視界の端がじわりと暗くなり、足元がふらつく。


 鏡の奥に映るのは、川底の家の“窓”だった。

 その窓の奥に、黒い影が立っている。


(なんで……鏡に映ってる?)

(ここは家の中だろ……?)


 理解が追いつかない。

 思考が空回りし、胸の奥で焦燥が渦を巻く。


 透が一歩近づくと、影もわずかに揺れた。

 透が息を吸うと、影も揺れた。


 まるで、透の動きに“呼応”しているように。


(……見てる?)

(俺を……?)


 その考えが浮かんだ瞬間、背中に冷たいものが走った。

 皮膚の下を氷の指がなぞるような感覚。


 だが、透が鏡から目を逸らした瞬間――


 影が、透の方へ一歩近づいた。


 透の心臓が跳ね上がる。

 胸の奥が一瞬で冷え、呼吸が止まる。

 身体が硬直し、喉がひゅっと鳴った。


 反射的に鏡を見直す。

 影は元の位置に戻っている。

 だが、鏡の表面に残る水滴の跡が、影が“前へ出た”ことを示していた。


(……動いた……)

(見てないときに……)


 恐怖が、じわじわと骨の中に染み込んでいく。

 逃げたいのに、足が床に縫い付けられたように動かない。


「……ふざけるなよ」


 声を出すことで、自分を保とうとする。

 だが、声はかすれ、震えていた。

 自分の声が、自分のものではないように聞こえる。


 透は鏡から離れ、部屋を出ようとした。

 だが、その瞬間――


 川の音が、家の中に響き始めた。

 川の音が、家の中に響き始めた。

 まるで、川が家のすぐそばまで迫ってきたかのような轟音。


 透の心臓が、どくん、と大きく跳ねた。

 耳の奥がじんじんと痛むほどの音量なのに、外の川は静かだ。

 その“矛盾”が、透の恐怖を一気に増幅させる。


(なんだよ……これ……)

(外は静かなのに……なんで音だけ……?)


 思考がまとまらない。

 頭の中がざわざわと騒ぎ、胸の奥が落ち着かない。

 自分の身体が、自分のものではないような感覚がじわりと広がる。


 透は窓へ駆け寄り、外を見た。


 川は静かだ。

 水位も変わっていない。

 だが、音だけが異常に大きい。


 透は耳を塞いだ。

 だが、音は止まらない。

 耳ではなく、頭の奥に直接響いてくるようだった。


(やめろ……やめてくれ……)

(聞きたくない……)


 そのとき――視界の端で、川底の影が揺れた。


 透は窓から川を見下ろした。


 水の奥に、家の影が浮かんでいる。だが、今までと違う。


 窓が、透のいる方向へ向いていた。


 透の呼吸が止まった。胸がぎゅっと締め付けられ、肺が空気を拒む。

 背中に冷たい汗が流れ落ちる。


(……見てる……?)

(俺を……見てるのか……?)


 水の流れとは関係なく、影の“窓”が透を追っている。

 まるで、透の位置を正確に把握しているかのように。


 透は息を呑んだ。喉がひりつき、呼吸が浅くなる。逃げたいのに、窓から目が離せない。


 その瞬間、頭の奥に“何か”が流れ込んできた。


 川の中。

 冷たい水。

 誰かの手が腕を掴む。

 暗い底へ引きずられる。


 透は頭を押さえた。視界が揺れ、膝が震える。


「……やめろ……!」


 記憶の断片が、勝手に蘇ってくる。幼い自分が川に落ちた記憶。水の底で、黒い影が自分を抱えていた記憶。


(そんな記憶……ない……)

(なのに……なんでこんなに鮮明なんだ……?)


 透は膝をついた。

 床の冷たさが、皮膚を通して骨まで染み込んでくる。


「……俺は……あのとき……」


 川底の家の影が揺れた。

 窓の奥の黒い影が、ゆっくりと顔を上げた。


 白い点が二つ、透を見つめていた。


 透の背筋が凍りつく。

 その“目”は、鏡越しであるにもかかわらず、皮膚の下に直接触れてくるような冷たさを帯びていた。


(やめろ……見るな……)

(俺の中に入ってくるな……)


 透は頭を押さえた。記憶の断片が、勝手に浮かび上がってくる。


 川の中。

 冷たい水。

 腕を掴む黒い影。

 沈む。

 息ができない。


「……やめろ……やめてくれ……!」


 透は床に手をつき、必死に呼吸を整えた。

 だが、記憶は止まらない。

 まるで誰かが、透の頭の中に“別の記憶”を流し込んでいるようだった。


 そのとき、鏡の奥の影が――ゆっくりと手を伸ばした。


 鏡の表面が波打ち、影の指先が水面を押すように盛り上がる。

 その動きは、現実のものとは思えないほど滑らかで、静かで、冷たい。

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