川底の家 第5話
老人が去ったあとも、透はしばらく川辺から動けなかった。
川底の影は、まるで透の視線に応えるように揺れている。
水の流れとは違う、ゆっくりとした“呼吸”のような動き。
透はカメラを胸に抱え、家へ戻った。
玄関を閉めると、家の中の空気がひどく重く感じられた。
まるで、外よりも暗い影が家の中に沈んでいるようだった。
透は祖父の部屋へ向かい、日記帳を開いた。
老人の言葉が頭から離れなかった。
――写されると、近づいてくる。
ページをめくると、祖父の筆跡でこう書かれていた。
「影は、形を求める。写されるたびに、輪郭がはっきりしていく。人の記憶を食って、形を取り戻す。」
透は息を呑んだ。
「……形を取り戻す?」
昨夜見た影は、確かに“家の形”をしていた。
だが、今朝の影はもっと濃かった。そして、写真に写った黒い影は、明らかに“人の形”をしていた。
ページの続きには、さらに不穏な言葉が並んでいた。
「影は、昔、透を連れていこうとした。あの日、透は川に落ちた。水の底で、影が透を抱えていた。」
透は目を見開いた。
「……俺が、川に落ちた?」
記憶にはない。だが、祖父が嘘を書く理由もない。
さらに読み進める。
「透は助かった。だが、影は透を手放していない。透の形を覚えている。透が戻ってくるのを待っている。」
透は日記帳を閉じた。胸の奥がざわりと揺れる。
「……だから“おかえり”って言ったのか」
昨夜の声が耳に蘇る。水の底から響いた、あの低い声。
透は立ち上がり、窓の外を見た。
川は静かに流れている。だが、その静けさが逆に不気味だった。
透はカメラを手に取り、もう一度写真を確認した。
そこには、透の背後に立つ黒い影。輪郭はぼやけているが、確かに“人の形”をしている。
そして、透の肩越しに川底を覗き込んでいる。
透は画面を拡大した。
影の“顔”の部分は黒く塗りつぶされたように見える。
だが、よく見ると――黒い中に、わずかに白い点が二つあった。
目のように見えた。
透は息を呑んだ。
「……見てるのか、俺を」
その瞬間、家のどこかで――
ぱき……
木が割れるような音がした。
透は身を固くした。音は、祖父の部屋の奥から聞こえたようだった。
ゆっくりと振り返る。
部屋の隅に置かれた古い鏡が、わずかに揺れている。
透は鏡に近づいた。鏡は古く、表面が曇っている。
だが、その曇りの奥に――
川底の家の“窓”のような影が映っていた。
透は息を呑んだ。
鏡の中の影は、ゆっくりと揺れている。まるで、水の中に沈んでいるかのように。
透が一歩近づくと、影の中の“窓”に黒い影が立った。
透は後ずさった。
鏡の中の影は、透の動きに合わせて揺れた。まるで、鏡の向こう側に“水の底”が広がっているかのように。
透は鏡から目を離せなかった。
影の中の“窓”に立つ黒い影が、ゆっくりと顔を上げた。
白い点が二つ、透を見つめていた。
鏡の中の“白い点”が、透を見つめていた。
それは目のように見えたが、形は曖昧で、黒い影の中に浮かぶ二つの光の粒にすぎない。
だが、その視線は確かに透へ向けられていた。
透は喉を鳴らした。
鏡に映る自分の顔が、わずかに引きつっている。
だが、鏡の奥に揺れる影は、透の表情とは無関係に“ゆっくりと顔を上げていた”。
「……やめろ」
思わず声が漏れた。
その瞬間、鏡の中の影がぴたりと動きを止めた。
透は息を呑んだ。
影は止まったまま、透を見つめている。
鏡の表面がわずかに波打ち、まるで水面のように揺れていた。
透は一歩後ずさった。
すると――
鏡の中の影も、一歩前へにじり出た。
透は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「……鏡越しに、こっちへ来ようとしてるのか?」
影は答えない。
ただ、鏡の奥で揺れながら、透の動きを“真似ている”。
透が息を吸うと、影も揺れた。透が肩を震わせると、影もわずかに震えた。
だが、ひとつだけ違う動きがあった。
透が後ずさると、影は――
透に近づくように前へ出た。
「……違う。真似じゃない。追ってきてる……?」
透は鏡から目を離せずにいた。
影の輪郭は、さっきよりもはっきりしている。
黒い塊だったものが、徐々に“人の形”を取り戻しつつあった。
肩の位置。
腕の長さ。
首の角度。
どれも、透自身の体格に近い。
「……俺、なのか?」
その瞬間、鏡の奥の影が――ゆっくりと首を傾けた。
透と同じ角度で。
だが、動きは透よりも“わずかに遅い”。
まるで、透の動きを“後からなぞっている”ようだった。
透は鏡から目を逸らし、部屋の隅へ下がった。
影は鏡の奥で揺れながら、透の動きを追うように首を戻した。
そのとき――
ぱしゃ……
水の滴るような音がした。
透は振り返った。
部屋の床に、水滴が落ちている。
ぽつ、ぽつ、と畳に濃い色の染みが広がっていく。
「……雨漏り?」
天井を見上げる。
雨は降っていない。
天井にも濡れた跡はない。
だが、水滴は増えていく。
まるで、鏡の奥から水が滲み出しているかのように。
透は鏡を見た。
鏡の表面が、まるで水面のように波打っている。
その奥で、影がゆっくりと手を上げた。
透は息を呑んだ。
影の手が、鏡の内側から“こちら側へ触れようとしている”。
鏡の表面が、指先に押されてわずかに膨らんだ。
水面を押すように、ぷくりと盛り上がる。
透は叫びそうになった。
その瞬間――
どん!
玄関の戸が大きな音を立てた。
透は飛び上がるほど驚いた。
鏡の影は動きを止め、波打つ鏡面が静まり返る。
透は玄関へ駆け寄った。
戸を開けると、誰もいない。
だが、足元に――濡れた足跡がひとつだけ残っていた。
家の外からではなく、家の中へ向かっている足跡だった。
おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします




