川底の家 第4話
襖の向こうに“誰か”が立っている。
透は息を殺し、耳を澄ませた。
気配は確かにある。重さを持った沈黙が、襖一枚を隔ててこちらに寄りかかっているようだった。
透は喉を鳴らした。
声を出そうとしたが、喉が固まって動かない。
ぎ……
襖の桟が、わずかに軋んだ。
誰かが触れたような、そんな微かな音。
透は思わず一歩後ずさった。
その瞬間――川の音が、急に大きくなった。
まるで家のすぐそばまで水が迫ってきたかのように、轟くような流れの音が押し寄せてくる。
透は襖から目を離せずにいたが、耳の奥で川の音が膨れ上がっていく。
「……なんだよ、これ」
呟いた声は震えていた。
そのとき、襖の向こうの気配が――すっと消えた。
透は息を吸い込んだまま固まった。
まるで、そこにいた“何か”が、音もなく溶けるように消えた感覚。
静寂が戻る。だが、川の音だけは異様に大きい。
透は意を決して襖を開けた。
廊下には誰もいない。
ただ、薄暗い影が伸びているだけだ。だが、床板の一部が、まるで“誰かが立っていた”かのように沈んでいた。
透は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「……外、見てみるか」
川の音が気になって仕方がなかった。
玄関を出ると、夜の気配が濃く漂っていた。
山の闇は深く、家の周囲はほとんど光が届かない。
川の方へ歩くと、音の正体がわかった。
水位が上がっている。
雨は降っていない。
空は晴れている。
なのに、川の流れは異常なほど速く、深くなっていた。
透は川辺に立ち、暗い水面を覗き込んだ。
その瞬間――水の奥に、家の影が浮かんでいた。
昼間よりもはっきりとした輪郭。
壁、屋根、窓。
そして、その窓の奥に――人影が立っている。
透は息を呑んだ。
影は動かない。
ただ、窓の奥からこちらを見ているように感じられた。
風が吹き、川面が揺れた。
影は一瞬で消えた。
透は震える指先を握りしめ、家へ戻ろうとした。
そのとき、背後から――
「……おかえり」
水の底から響くような、低い声がした。
透は振り返った。
川には誰もいない。
ただ、夜の闇が水面に沈んでいるだけだった。
胸の奥がざわりと揺れた。
その言葉は、確かに自分に向けられたものだった。
透は家へ戻り、玄関の戸を閉めた。
家の中は静かだ。
だが、川の音だけが、いつまでも耳に残っていた。
こうして、透の“帰郷”の夜は静かに終わった。
だが、彼はまだ知らない。
川底の家が、すでに彼を見つけているということを。
透は震える手でカメラを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
写真の中の“影”は、どう見ても透の背後に立っていた。
しかも、昨夜、襖の向こうに感じた気配と同じ位置。
「……ありえない」
透は深呼吸し、もう一度だけ試してみることにした。
川底の影にレンズを向け、慎重にシャッターを切る。
カシャ。
画面を確認する。
そこに写っていたのは――透の後ろ姿。
そして、透の肩越しに覗き込む“黒い影”。
三度目も同じだった。
偶然ではない。
カメラが壊れているわけでもない。
透は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「……なんなんだよ、これ」
川底を覗き込むと、影はまだそこにあった。
揺らめく水の奥に、家の輪郭がぼんやりと浮かんでいる。
だが、さっきよりも“近い”気がした。
透が一歩後ずさると、影がわずかに揺れた。
まるで、透の動きを追うように。
そのとき――
「三浦さん!」
背後から声がして、透は飛び上がるほど驚いた。
振り返ると、昨日の老人が立っていた。
「……驚かせんといてくださいよ」
透が胸を押さえると、老人は険しい顔で川を見下ろした。
「また……見えとるんか?」
透は迷ったが、正直に頷いた。
「ええ。家みたいな影が。それと……写真を撮ると、おかしなものが写るんです」
老人の顔が強張った。
「写真、撮ったんか」
「はい。証拠が欲しくて」
老人は透の腕を掴んだ。
その力は、想像以上に強かった。
「消せ。今すぐ全部、消してしまえ」
「え……?」
「ええか、あれは“写したらあかん”。影はな、写されると近づいてくるんや」
透は息を呑んだ。
「近づく……?」
老人は川を睨みつけるように見つめた。
「昔からそうや。あれは人の形をしとるけど、人やない。水の底に沈んだ“記憶の残りかす”みたいなもんや。けどな……写されると、形がはっきりしてくるんや」
透は背筋が冷たくなるのを感じた。
「じゃあ……俺が撮ったせいで、あれが……?」
「せや。呼ばれとるんや、三浦さん。あんた、昔も一度呼ばれとる」
透は息を呑んだ。
祖父の日記にも同じことが書かれていた。
「俺……昔、川に……?」
老人は言葉を濁した。
「……あんたは助かった。けど、あれは忘れとらん。あんたのことを、ずっと覚えとる」
透は川底を見下ろした。
影は揺れている。
だが、その揺れは水の流れとは違うリズムを刻んでいた。
まるで、透の存在に反応しているかのように。
老人は低い声で言った。
「三浦さん。あれはな……“帰ってきた者”を呼ぶんや」
透は息を呑んだ。
帰ってきた者――それは、昨夜の声と同じ言葉だった。
――おかえり。
胸の奥がざわりと揺れた。
老人は透の肩に手を置いた。
「今日は川に近づくな。日が暮れる前に家に入れ。ええな?」
透は頷くしかなかった。
老人はゆっくりと背を向け、山道を歩いていった。
その背中は、どこか怯えているように見えた。
透は川底をもう一度見下ろした。
影は、さっきよりも“濃く”なっていた。
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