川底の家 第3話
透は川辺に立ち尽くしたまま、耳を澄ませた。
水音は静かだ。
だが、さっきの“ぽちゃん”という音は、どう考えても自然のものではなかった。
胸の奥に、冷たい針のような違和感が刺さったまま抜けない。
「……誰かがいるのか」
声を張ってみたが、返事はない。
自分の声が、山の空気に吸い込まれていく。
その静けさが、逆に透の心をざわつかせた。
夕暮れの光が川面に薄く広がり、揺れるたびに胸の奥がざわりと震える。
“何かが潜んでいる”という感覚が、理屈ではなく身体の奥から湧き上がってくる。
家へ戻ろうとしたとき、ふと視界の端で何かが動いた。
川底の石の影が、わずかに揺れたように見えた。
透は反射的に振り返る。
心臓が一拍遅れて強く脈打つ。
水は澄んでいる。
だが、底の奥――暗がりの向こうに、また“家の影”が浮かんでいた。
今度は、輪郭がはっきりしている。
壁のような影。
窓のような四角い穴。
そして、その窓の奥に――
黒い影が立っていた。
透は息を呑んだ。
喉がひりつき、呼吸が浅くなる。
影は動かない。ただ、窓の奥に“そこにいる”という存在だけが濃く漂っている。
視線を外したいのに、身体が固まって動かない。
「……なんだよ、これ」
透が一歩後ずさると、影がわずかに揺れた。
まるで、透の動きに反応したかのように。
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
川面が大きく揺れ、影はふっと消えた。
ただの川底が戻る。
透は震える指先を握りしめ、家へ戻った。
歩くたび、足がわずかに震えているのがわかった。
玄関に入ると、家の中の空気が昼間よりも重く感じられた。
夕暮れが終わり、山の影が濃くなっている。
廊下は薄暗く、どこか湿った匂いが漂っていた。
その匂いが、なぜか胸の奥の不安を刺激する。
透は祖父の部屋へ戻り、日記帳を開いた。
先ほど読んだページの続きが気になって仕方がなかった。
“知りたくないのに、知りたい”という矛盾した衝動が胸を締めつける。
ページをめくると、祖父の筆跡でこう書かれていた。
「あれは、人の形をして近づいてくる。だが、人ではない。水に映る影のように、こちらの動きを真似る。」
透は喉が乾くのを感じた。
指先がじんと痺れ、ページをめくる手が震える。
さらに読み進める。
「透が小さい頃、一度あれに呼ばれた。川へ入ろうとした。あの日のことを、透は覚えていない。」
透は目を見開いた。
胸の奥がざわりと揺れ、記憶の底がかき乱されるような感覚が走る。
“覚えていない”という言葉が、妙に重く響いた。
ページの端には、震える字でこう書かれていた。
「あれは、透を覚えている。」
透は日記帳を閉じた。
胸の奥がざわつく。
川底の影が、自分を“見ていた”ように感じたのは、気のせいではないのかもしれない。
背中に冷たい汗が流れた。
そのとき――
ぎ……ぎ……ぎ……
また、廊下の奥から足音がした。
今度は、はっきりと“こちらへ向かってくる”足音。
透は息を呑んだ。
日記帳を握りしめたまま、襖の向こうを見つめる。
心臓が、痛いほど強く脈打つ。
足音は、部屋の前で止まった。
静寂。
透の心臓の音だけが響く。
耳鳴りが、静けさをさらに際立たせる。
そして――
襖の向こうで、誰かが立っている気配がした。
襖の向こうに“誰か”が立っている。
透は息を殺し、耳を澄ませた。
気配は確かにある。
重さを持った沈黙が、襖一枚を隔ててこちらに寄りかかっているようだった。
透は喉を鳴らした。
声を出そうとしたが、喉が固まって動かない。
身体が勝手に強張り、足が床に貼りついたように動かない。
ぎ……
襖の桟が、わずかに軋んだ。
誰かが触れたような、そんな微かな音。
透は思わず一歩後ずさった。
その瞬間――
川の音が、急に大きくなった。
まるで家のすぐそばまで水が迫ってきたかのように、轟くような流れの音が押し寄せてくる。
耳の奥が震え、胸がざわつく。
「……なんだよ、これ」
呟いた声は震えていた。
自分の声が、やけに遠く聞こえる。
そのとき、襖の向こうの気配が――すっと消えた。
透は息を吸い込んだまま固まった。
まるで、そこにいた“何か”が、音もなく溶けるように消えた感覚。
静寂が戻る。
だが、川の音だけは異様に大きい。
透は意を決して襖を開けた。
廊下には誰もいない。
ただ、薄暗い影が伸びているだけだ。
だが、床板の一部が、まるで“誰かが立っていた”かのように沈んでいた。
透は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
喉がひりつき、呼吸が浅くなる。
「……外、見てみるか」
川の音が気になって仕方がなかった。
玄関を出ると、夜の気配が濃く漂っていた。
山の闇は深く、家の周囲はほとんど光が届かない。
その闇が、まるで生き物のようにうごめいて見えた。
川の方へ歩くと、音の正体がわかった。
水位が上がっている。
雨は降っていない。
空は晴れている。
なのに、川の流れは異常なほど速く、深くなっていた。
胸の奥がざわつき、足が勝手に止まる。
透は川辺に立ち、暗い水面を覗き込んだ。
その瞬間――
水の奥に、家の影が浮かんでいた。
昼間よりもはっきりとした輪郭。
壁、屋根、窓。
そして、その窓の奥に――
人影が立っている。
透は息を呑んだ。
胸が強く締めつけられる。
逃げたいのに、目が離れない。
影は動かない。
ただ、窓の奥からこちらを見ているように感じられた。
風が吹き、川面が揺れた。
影は一瞬で消えた。
透は震える指先を握りしめ、家へ戻ろうとした。
そのとき、背後から――
「……おかえり」
水の底から響くような、低い声がした。
透は振り返った。
川には誰もいない。
ただ、夜の闇が水面に沈んでいるだけだった。
胸の奥がざわりと揺れた。
その言葉は、確かに自分に向けられたものだった。
透は家へ戻り、玄関の戸を閉めた。
家の中は静かだ。
だが、川の音だけが、いつまでも耳に残っていた。
こうして、透の“帰郷”の夜は静かに終わった。
だが、彼はまだ知らない。
川底の家が、すでに彼を見つけているということを。
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