川底の家 第2話
透はしばらく動けなかった。
床板が沈むあの感触は、確かに“誰かが歩いた”ものだった。
耳の奥に残るその一瞬の重みが、じわじわと背中を冷やしていく。
古い家だから軋むのはわかる。だが、今の音は――一歩だけだった。
まるで、誰かが“そこに立ち止まった”ような。
「……気のせいだ」
声に出してみると、少しだけ落ち着いた。
だが、胸の奥のざわつきは消えない。
声を出した自分が、ひどく頼りなく感じられた。
透は荷物の整理を後回しにし、家の中をもう一度見て回った。
廊下は薄暗く、壁にかけられた古い掛け時計は止まっている。
祖父が倒れたのは冬だったはずだ。
そのまま時間が止まったように、家全体が静まり返っていた。
静けさが、逆に耳を圧迫する。
ふと、祖父の部屋の襖が半開きになっていることに気づいた。
「……開けた覚えはないけど」
自分の声が、部屋の空気に吸い込まれていく。
透はゆっくりと襖を開けた。
部屋の中は、昼間でも薄暗い。
窓には厚手の障子が貼られ、光がほとんど入らない。
畳の上には祖父の遺品らしき箱がいくつか置かれていた。
空気が重い。
まるで、ここだけ時間が別の速度で流れているような感覚があった。
その中のひとつ、木箱の蓋がわずかに開いている。
透はしゃがみ込み、蓋をそっと持ち上げた。
中には、古い日記帳が数冊。
そして、見覚えのない写真が一枚だけ入っていた。
写真には、川辺に立つ少年が写っている。
逆光で顔はよく見えないが、どこかで見たような姿だった。
「……俺?」
透は写真を近づけた。
少年の服装、髪型、背格好――どう見ても自分の幼い頃に似ている。
だが、どうしても思い出せない。
記憶の表面を指でなぞっても、肝心な部分だけが滑り落ちていくような感覚。
胸の奥がざわつき、呼吸が浅くなる。
そのとき、背後で――
ぱさ……
紙が落ちるような音がした。
振り返ると、日記帳の一冊が床に落ちていた。
透は手を伸ばし、拾い上げた。
表紙には、祖父の字でこう書かれていた。
「川底の家について」
透の心臓が強く跳ねた。
指先がじんと痺れる。
“見てはいけないものを見つけた”という感覚が、遅れて背筋を走る。
ページを開くと、最初の行に短く書かれている。
「あれは家ではない」
透は息を呑んだ。
その下には、震えるような筆跡で続きが記されていた。
「あれは“記憶の形”だ。近づくな。見つめるな。呼ばれるぞ。」
読み終えた瞬間、家のどこかで――
ぎ……ぎ……
ゆっくりと床板が沈む音がした。
今度は、一歩ではない。
廊下の奥から、こちらへ向かってくるような、連続した足音。
透は凍りついた。
喉がひゅっと細くなり、呼吸がうまくできない。
心臓の鼓動が、耳の奥でうるさいほど響く。
足音は、確かに“誰か”の歩幅だった。
そして、廊下の影がわずかに揺れた。
廊下の奥から響く足音は、ゆっくりと、しかし確実にこちらへ近づいていた。
透は日記帳を握りしめたまま、呼吸を忘れていた。
身体が勝手に強張り、動かない。
ぎ……ぎ……ぎ……
古い木が沈む音。
だが、そのリズムはあまりにも“人間の歩幅”に近い。
否定しようとする理性が、恐怖に押しつぶされそうになる。
透は喉を鳴らした。
声を出そうとしたが、うまく出ない。
足音は、廊下の曲がり角の向こうで止まった。
静寂が落ちる。
川の音さえ遠く感じるほどの、重い沈黙。
耳鳴りだけが、自分がまだ生きていることを知らせていた。
透は意を決して、襖を少しだけ開けた。
廊下には誰もいない。
ただ、薄暗い影が伸びているだけだ。
その影が、さっきよりも濃く見える気がした。
「……気のせいだ。絶対に気のせいだ」
自分に言い聞かせるように呟き、透は部屋を出た。
廊下を歩くたび、床板がぎしりと鳴る。
だが、その音は先ほどの足音とは違う。
自分の体重で沈む、自然な軋みだ。
それでも、背後に視線を感じる。
透は玄関へ向かった。
外の空気を吸えば、少しは落ち着く気がした。
戸を開けると、夕暮れの冷たい風が頬を撫でた。
川の音が近い。
山の影が濃くなり、谷間に薄い霧が漂い始めている。
透は縁側に腰を下ろし、深く息を吸った。
肺に入る空気が冷たく、胸の奥がじんと痛む。
「……こんなに静かな場所だったか?」
幼い頃の記憶は断片的だ。
祖父の家に来たことは何度もあるはずなのに、思い出せる場面は少ない。
川で遊んだ記憶もある。
だが、今日見た“川底の影”のようなものは、一度も覚えていない。
記憶の隙間に、何か大事なものが落ちているような感覚があった。
そのとき、川の方から――
ざぶ……
水をかくような音がした。
透は反射的に立ち上がり、川辺へ歩いた。
夕暮れの光が水面に反射し、揺らめいている。
だが、誰もいない。
魚が跳ねたにしては、音が重すぎた。
胸の奥がざわつき、足が勝手に川へ近づく。
透は川を覗き込んだ。
水は澄んでいる。
底の石がはっきり見える。
だが、その奥に――
四角い影が、またあった。
今度は、はっきりと“家の形”をしている。
輪郭が揺れ、屋根の影が水の中で歪んでいる。
透は息を呑んだ。
胸が強く締めつけられる。
逃げたいのに、目が離れない。
影の中に、何かが動いた。
人影のような、黒い揺らぎ。
水の奥で、ゆっくりとこちらへ向き直るように――
「……誰だ」
声が震えた。
自分の声が、やけに遠く聞こえる。
その瞬間、影はふっと消えた。
水面が揺れ、ただの川底が現れる。
透はしばらくその場に立ち尽くした。
胸の鼓動が早い。
冷たい汗が背中を伝う。
足が震えていることに気づき、ようやく息を吐いた。
「……やっぱり、疲れてるだけだ」
そう言い聞かせるように呟き、家へ戻ろうとした。
だが、背後で――
ぽちゃん。
また、水音がした。
今度は、明らかに“誰かが足を踏み入れた”ような音だった。
透は振り返った。
川には、誰もいない。
ただ、夕暮れの光が水面に揺れているだけだった。
だが、胸の奥のざわつきは、もう誤魔化せなかった。
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