川底の家 第1話
山の空気は、四月だというのに冷たかった。
三好市の奥へ奥へと車を走らせるにつれ、窓の外の景色は色を失い、杉林の影が濃く沈んでいく。透はハンドルを握りながら、胸の奥に沈むざらついた感覚を振り払えずにいた。
十年という時間が、思っていた以上に重くのしかかってくる。帰りたいわけでも、帰りたくないわけでもない。ただ、どこにも自分の居場所がないという感覚だけが、じわじわと背骨にまとわりついていた。
十年ぶりの帰郷だった。
祖父が亡くなり、家を継ぐ者がいないという連絡を受けたのは三日前。都会での仕事はうまくいっていなかった。写真家としての活動は細々と続けていたが、依頼は減り、生活は荒れ、気づけば逃げるように荷物をまとめていた。
「戻る場所があるだけ、まだマシか」
そう呟いた声は、車内でやけに響いた。
自分の声が、まるで他人のもののように聞こえた。軽口のつもりだったが、どこか空虚で、言葉の重さが胸に沈んでいく。
祖父の家は、山の斜面に張り付くように建っている。
最寄り駅からは車で四十分。舗装の剥がれた細い道を抜け、川沿いの集落を過ぎると、ぽつんと一軒だけ取り残されたように古い家が現れた。
車を停めると、川の音が耳に入ってくる。
透は荷物を降ろしながら、ふと視線を川へ向けた。
その瞬間、胸の奥がひやりとした。
理由はわからない。ただ、心臓の奥を指先でつままれたような、説明のつかない冷たさが走った。
川の水は澄んでいる。
底の石まで見えるほど透明だ。
だが、その透明さの奥に――影のような“形”があった。
家のような、四角い輪郭。屋根のような三角の影。水の揺らぎに合わせて、ゆっくりと形を変えている。
「……建物?」
ありえない。川底に家があるはずがない。
だが、透の目はそこから離れなかった。
視線を外したいのに、身体のどこかが固まってしまったように動かない。
“見てはいけない”という直感と、“確かめたい”という衝動が胸の中でせめぎ合う。
風が吹き、川面が揺れた。
影は一瞬でかき消えた。
透は息を呑んだ。
肺に入った空気が冷たく、痛い。
見間違いだろうか。
疲れているのかもしれない。
そう思おうとしたが、胸の奥に残るざわつきは消えなかった。
「三浦さんかい?」
背後から声がした。
振り返ると、腰の曲がった老人が立っていた。
近所の人だろう。透は軽く会釈した。
「久しぶりやな。おじいさん、亡くなってしもうて……大変やったな」
「ええ……ありがとうございます」
老人は川の方をちらりと見た。
その目が、わずかに細められる。
その仕草に、透の胸がまたざわついた。
まるで、自分が触れてはいけないものに触れた子どものような、後ろめたさが湧き上がる。
「……川、見たんか?」
透は一瞬迷ったが、正直に答えた。
「ええ。なんか……家みたいな影が」
老人の顔が強張った。
その変化は一瞬だったが、透の心臓は跳ねた。
“言ってはいけないことを言った”という感覚が、遅れて背筋を冷やす。
「見たらあかん」
その声は、川の音にかき消されるほど小さかったが、確かに震えていた。
透は返事をしようとしたが、喉がうまく動かなかった。
老人はしばらく黙ったまま川を見つめていた。
その横顔は、まるで何かを思い出すのを恐れているようだった。
「……あれは、昔からあるんや」
ぽつりと漏れた声は、風に乗って消えそうに弱い。
「家なんですか?」
透が尋ねると、老人は首を横に振った。
「家に見えるだけや。あれは“形”や。人の記憶が沈んだみたいな……そんなもんや」
意味がわからなかった。
だが、老人の目は冗談を言っているものではなかった。
透の胸の奥で、説明のつかない不安が膨らんでいく。
“記憶が沈む”という言葉が、妙に引っかかった。
「見ても、触れんようにな。あれは、呼ぶからな」
「呼ぶ……?」
老人は答えず、踵を返した。
その背中は、透が声をかける隙もないほど急いでいた。
まるで、これ以上関わりたくないと言わんばかりに。
残された透は、川を見下ろした。
さっきの影はもう見えない。
ただ、澄んだ水が静かに流れているだけだ。
「……疲れてるだけだ」
自分に言い聞かせるように呟いたが、声は頼りなかった。
祖父の家は、思っていた以上に荒れていた。
玄関の土間には落ち葉が溜まり、畳は湿気を吸って波打っている。
窓を開けると、山の冷たい空気が流れ込み、古い木の匂いが揺れた。
透は荷物を置き、部屋を一通り見て回った。
祖父が使っていた部屋には、古いカメラやレンズが並んでいる。
埃をかぶってはいるが、どれも大切に扱われていたことがわかる。
「じいちゃん……」
透は棚の上に置かれた写真立てを手に取った。
そこには、幼い自分と祖父が川辺で笑っている写真があった。
――川辺。
透は写真を見つめながら、胸の奥に小さな違和感を覚えた。
この写真を撮った日の記憶が、どうしても思い出せない。
祖父と川に行った記憶はある。
だが、この写真の“背景”が、どうしても曖昧だ。
まるで、その部分だけ霧がかかったように抜け落ちている。
「……まあ、いいか」
写真を戻し、透は窓の外を見た。
夕暮れが近づき、川の音が少し強くなっている。
風が吹くたび、木々がざわめき、家の壁がかすかに軋んだ。
そのときだった。
――ぽちゃん。
水音がした。
小石が落ちたような、軽い音。
透は反射的に川の方へ目を向けた。
川面には何もない。
だが、耳の奥に残るその音は、どうしても気になった。
胸の奥がざわつき、呼吸が浅くなる。
「……誰かいるのか」
返事はない。
ただ、川の流れが静かに続いているだけだった。
透はしばらく耳を澄ませていたが、やがて諦めて窓を閉めた。
その瞬間、背後で――
ぎし……
床板が、誰かが歩いたように沈んだ。
透は振り返った。
誰もいない。
だが、確かに“足音”だった。
心臓が一拍遅れて強く脈打つ。
冷たい汗が背中を伝い、喉がひりつく。
“ここに自分以外の何かがいる”という感覚が、言葉より先に身体を支配した。
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