表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ホラー短編集  作者: 倉木元貴


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
80/87

川底の家 第1話

 山の空気は、四月だというのに冷たかった。

 三好市の奥へ奥へと車を走らせるにつれ、窓の外の景色は色を失い、杉林の影が濃く沈んでいく。透はハンドルを握りながら、胸の奥に沈むざらついた感覚を振り払えずにいた。

 十年という時間が、思っていた以上に重くのしかかってくる。帰りたいわけでも、帰りたくないわけでもない。ただ、どこにも自分の居場所がないという感覚だけが、じわじわと背骨にまとわりついていた。


 十年ぶりの帰郷だった。

 祖父が亡くなり、家を継ぐ者がいないという連絡を受けたのは三日前。都会での仕事はうまくいっていなかった。写真家としての活動は細々と続けていたが、依頼は減り、生活は荒れ、気づけば逃げるように荷物をまとめていた。


「戻る場所があるだけ、まだマシか」


 そう呟いた声は、車内でやけに響いた。

 自分の声が、まるで他人のもののように聞こえた。軽口のつもりだったが、どこか空虚で、言葉の重さが胸に沈んでいく。


 祖父の家は、山の斜面に張り付くように建っている。

 最寄り駅からは車で四十分。舗装の剥がれた細い道を抜け、川沿いの集落を過ぎると、ぽつんと一軒だけ取り残されたように古い家が現れた。


 車を停めると、川の音が耳に入ってくる。

 透は荷物を降ろしながら、ふと視線を川へ向けた。


 その瞬間、胸の奥がひやりとした。

 理由はわからない。ただ、心臓の奥を指先でつままれたような、説明のつかない冷たさが走った。


 川の水は澄んでいる。

 底の石まで見えるほど透明だ。

 だが、その透明さの奥に――影のような“形”があった。


 家のような、四角い輪郭。屋根のような三角の影。水の揺らぎに合わせて、ゆっくりと形を変えている。


「……建物?」


 ありえない。川底に家があるはずがない。

 だが、透の目はそこから離れなかった。

 視線を外したいのに、身体のどこかが固まってしまったように動かない。

 “見てはいけない”という直感と、“確かめたい”という衝動が胸の中でせめぎ合う。


 風が吹き、川面が揺れた。

 影は一瞬でかき消えた。


 透は息を呑んだ。

 肺に入った空気が冷たく、痛い。

 見間違いだろうか。

 疲れているのかもしれない。

 そう思おうとしたが、胸の奥に残るざわつきは消えなかった。


「三浦さんかい?」


 背後から声がした。

 振り返ると、腰の曲がった老人が立っていた。

 近所の人だろう。透は軽く会釈した。


「久しぶりやな。おじいさん、亡くなってしもうて……大変やったな」


「ええ……ありがとうございます」


 老人は川の方をちらりと見た。

 その目が、わずかに細められる。

 その仕草に、透の胸がまたざわついた。

 まるで、自分が触れてはいけないものに触れた子どものような、後ろめたさが湧き上がる。


「……川、見たんか?」


 透は一瞬迷ったが、正直に答えた。


「ええ。なんか……家みたいな影が」


 老人の顔が強張った。

 その変化は一瞬だったが、透の心臓は跳ねた。

 “言ってはいけないことを言った”という感覚が、遅れて背筋を冷やす。


「見たらあかん」


 その声は、川の音にかき消されるほど小さかったが、確かに震えていた。

 透は返事をしようとしたが、喉がうまく動かなかった。


 老人はしばらく黙ったまま川を見つめていた。

 その横顔は、まるで何かを思い出すのを恐れているようだった。


「……あれは、昔からあるんや」


 ぽつりと漏れた声は、風に乗って消えそうに弱い。


「家なんですか?」


 透が尋ねると、老人は首を横に振った。


「家に見えるだけや。あれは“形”や。人の記憶が沈んだみたいな……そんなもんや」


 意味がわからなかった。

 だが、老人の目は冗談を言っているものではなかった。

 透の胸の奥で、説明のつかない不安が膨らんでいく。

 “記憶が沈む”という言葉が、妙に引っかかった。


「見ても、触れんようにな。あれは、呼ぶからな」


「呼ぶ……?」


 老人は答えず、踵を返した。

 その背中は、透が声をかける隙もないほど急いでいた。

 まるで、これ以上関わりたくないと言わんばかりに。


 残された透は、川を見下ろした。

 さっきの影はもう見えない。

 ただ、澄んだ水が静かに流れているだけだ。


「……疲れてるだけだ」


 自分に言い聞かせるように呟いたが、声は頼りなかった。


 祖父の家は、思っていた以上に荒れていた。

 玄関の土間には落ち葉が溜まり、畳は湿気を吸って波打っている。

 窓を開けると、山の冷たい空気が流れ込み、古い木の匂いが揺れた。


 透は荷物を置き、部屋を一通り見て回った。

 祖父が使っていた部屋には、古いカメラやレンズが並んでいる。

 埃をかぶってはいるが、どれも大切に扱われていたことがわかる。


「じいちゃん……」


 透は棚の上に置かれた写真立てを手に取った。

 そこには、幼い自分と祖父が川辺で笑っている写真があった。


 ――川辺。


 透は写真を見つめながら、胸の奥に小さな違和感を覚えた。

 この写真を撮った日の記憶が、どうしても思い出せない。

 祖父と川に行った記憶はある。

 だが、この写真の“背景”が、どうしても曖昧だ。

 まるで、その部分だけ霧がかかったように抜け落ちている。


「……まあ、いいか」


 写真を戻し、透は窓の外を見た。


 夕暮れが近づき、川の音が少し強くなっている。

 風が吹くたび、木々がざわめき、家の壁がかすかに軋んだ。


 そのときだった。


 ――ぽちゃん。


 水音がした。

 小石が落ちたような、軽い音。


 透は反射的に川の方へ目を向けた。


 川面には何もない。

 だが、耳の奥に残るその音は、どうしても気になった。

 胸の奥がざわつき、呼吸が浅くなる。


「……誰かいるのか」


 返事はない。

 ただ、川の流れが静かに続いているだけだった。


 透はしばらく耳を澄ませていたが、やがて諦めて窓を閉めた。


 その瞬間、背後で――


 ぎし……


 床板が、誰かが歩いたように沈んだ。


 透は振り返った。

 誰もいない。


 だが、確かに“足音”だった。

 心臓が一拍遅れて強く脈打つ。

 冷たい汗が背中を伝い、喉がひりつく。

 “ここに自分以外の何かがいる”という感覚が、言葉より先に身体を支配した。

おもしろかったら評価、ブックマークよろしくお願いします

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ