最初からいた 最終話
笑っていた。暗闇の中で、輪郭の曖昧なその顔の口元だけが、粘つくように歪んでいる。人の形をしているのに、人ではないとわかる。理由はない。ただ、見た瞬間に身体が理解する。それは、最初からいたものだ。
健太の喉がひくりと鳴る。逃げなければならない。そう頭ではわかっているのに、足が地面に貼り付いたように動かない。視線も外せない。まばたきすら忘れている。目の奥が乾いて痛むのに、それでも見続けてしまう。
「……来るぞ」
修司の声が遠く響く。水の中から聞いているように、輪郭がぼやけている。現実感が剥がれ落ち、視界の端から色が抜けていく。それでも、目の前のそれだけは異様なほど鮮明だった。
一歩、影が近づく。
その瞬間、健太の頭の奥で何かが弾けた。
——知っている。
理解が先に来る。記憶がそれに追いつく。
夏の夕方。土の匂い。熱の残った空気。蝉の声が耳の奥で鳴り続けている。笑いながら走る自分たち。息を切らしながら、振り返って——そこに、いた。
もう一人。
顔は見えない。輪郭も曖昧だ。それでも、確かにそこにいたという確信だけが、鋭く残っている。
「……お前……」
声が震える。影がさらに一歩近づいたとき、記憶の中の“誰か”と目の前のそれが重なる。ぴたりと一致する感覚。ずれていたものがはまる音が、頭の中で鳴る。
理解が形になる。
同時に、別の違和感が浮かび上がる。
——じゃあ、今ここにいる自分は、誰だ?
思考が軋む。止めようとしても止まらない。最初は三人。そこに一つ混ざって四人。なら、今ここにいる「自分」は、どこから来た。
「……は……?」
呼吸が浅くなる。肺が空気を拒む。吸っているはずなのに、満たされない。視界が歪み、修司の姿が波打つように揺れる。
そのとき、気づく。
修司がこちらを見ている。
その目は、恐怖ではない。もっと冷たい。計測するような視線。数を確認する目。
「……お前……最初からいたのか……?」
低く落ちる声。その一言で、内側の何かが決定的に崩れる。
否定しようとする。言葉を掴もうとする。だが、指の間から零れるように消えていく。代わりに、別の感覚がゆっくりと満ちてくる。
懐かしさ。
この空気、この匂い、この場所。全部、知っている。
そして——安堵。
ようやく思い出した、という感覚。
最後に。
空腹。
「……あ……」
声が漏れる。乾ききった音だった。喉の奥がひび割れているように痛むのに、その痛みすらどこか心地よい。
修司の姿が異様にはっきりと見える。肩の上下。荒い呼吸。鼓動のリズム。皮膚の下を流れる熱。全部が手に取るようにわかる。
さっきまでの恐怖が、別の形に変わる。
これは、逃げる側の感情じゃない。
追う側の感覚だ。
「……違う……」
かすれた否定が漏れる。だが続かない。身体の奥が、それを受け入れてしまっている。ずっと前から。最初から。
自分は、“そっち側”だった。
修司が一歩後ずさる。そのわずかな動きに、身体が勝手に反応する。思考よりも先に足が出る。
「……やめろ……」
声が遠い。届かない。代わりに、頭の奥で別の声が響く。
——増やせ。
——まだ足りない。
——数を揃えろ。
その声は自分のもののようで、自分ではない。だが、抗えないほど自然に身体に馴染んでいる。
視界の端で、影が揺れる。無数に。地面の上で、壁の際で、空気の中で。すべてがこちらを向いている。
仲間だ、と理解する。
同じもの。最初からいたもの。ずっと待っていた。こちらが“思い出す”のを。
「……っ、来るな!!」
修司が叫ぶ。その声に一瞬だけ現実が戻る。
だが、遅い。
踏み込む。距離が消える。腕が伸びる。触れる。
温かい。
その温度に、強烈な衝動が走る。腹の奥が締め付けられるように疼く。満たしたいという欲求が、一気に溢れる。
引き寄せる。
「——っ!!」
短い声が途切れる。抵抗が伝わる。だが、それすらもどこか懐かしい感触だった。
次の瞬間、すべてが途切れる。
音が消える。風が止まる。世界が、静止する。
しばらくして、ゆっくりと息を吐く。深く、長く。
満たされている。
さっきまでの焦燥が、跡形もなく消えている。代わりに、底のない静けさが広がっている。
足元を見る。何もない。ただ、影だけが揺れている。数えようとする前に、視線を逸らす。数える必要はない。意味がないと、もう知っている。
ふと、視線を上げる。
拝殿の脇に、古びた鏡が立てかけられている。表面は曇り、ひびが走り、像は歪んでいる。
そこに映るものを見る。
それは、自分ではない。
輪郭が曖昧で、形が定まらない。見るたびに微妙に変わる。それでも、口元だけがはっきりと歪んでいる。
笑っている。
「……ああ……」
声が漏れる。納得に近い音だった。
全て理解する。
鬼ごっこをしたとき、混ざったのは——最初から、自分だった。
だから消えない。
だから終わらない。
視界の奥で影たちが揺れる。増えている。今も、どこかで。
まだ足りない。
その感覚が、静かに根を張る。
一歩、踏み出す。土を踏む感触がやけに鮮明だ。夜の空気は冷たいのに、身体の内側は妙に温かい。
村の方へ向かう。暗い道。誰もいないはずの道。
それでも、どこかで声がする。
子供の頃の笑い声。
鬼ごっこの続きを呼ぶ声。
数は、合っていない。だから——まだ、終われない。
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