最初からいた 第16話
夜は完全に落ちていた。空には雲が低く垂れ込み、月明かりは薄く濁っている。村は静まり返り、家々の輪郭は黒く沈み、どこにも灯りはない。昼間にまとわりついていた湿気は消え、代わりに乾いた冷気がゆっくりと地面を這っている。吸い込む空気は冷たく、肺の奥にざらつく感触を残した。
風はほとんどない。それでも、遠くで草が擦れる音が細く続いている。その単調な音だけが、かえってこの場所の静けさを際立たせていた。夜の闇は深く、空気そのものが重く沈んでいるように感じる。
二人は止まらず走り続けていた。靴底が土を蹴るたび、鈍い衝撃が足から腰へと伝わる。地面は乾いているはずなのに、どこか柔らかく沈み込むような感触がある。踏むたびに、土の下で何かがわずかに動くような気配がした。呼吸は荒く、吐く息が白く揺れるたびに視界の端がわずかに霞む。
やがて木々が途切れた。枝葉の影が切れ、ぽっかりと空間が開く。暗闇の中に、形だけが浮かび上がる。
神社だった。
石段は斜めに傾き、ところどころ崩れている。表面には濃い苔が張りつき、湿り気を帯びて鈍く光っていた。足を乗せると、じわりと水が滲み、靴底に冷たさが染み込む。苔の下で、石が呼吸しているような気配すらあった。
鳥居は黒く、塗装は剥げ落ち、木肌がむき出しになっている。そこに差すわずかな月明かりは吸い込まれるように暗く、輪郭だけが浮いている。注連縄は細く痩せ、垂れた紙垂は裂けかけているのに、風もないのにゆらゆらと揺れていた。まるで、誰かが触れているように。
「……ここ……」
健太が息を切らしながら呟く。声は夜気に吸われ、思ったよりも遠くに広がらない。耳に返ってくるのは、自分の呼吸音ばかりだった。
見覚えがある。だが、懐かしさよりも先に、胸の奥にざらついた違和感が広がる。ここに来たことがあるのは確かだ。だが、その記憶はどこか濁っていて、触れようとすると指先から逃げていく。
鬼ごっこ。
その言葉が浮かんだ瞬間、景色の温度が一段下がった気がした。空気が薄くなり、夜の匂いが変わる。
「……覚えてるか」
修司が言う。声は低く、夜に溶けずはっきりと響いた。
「ここで、やったよな」
否定できない。だが、思い出そうとすると記憶が滑る。像を結ぶ前に、輪郭だけを残して崩れていく。
二人は石段を上る。コツ、コツ、と足音が響く。その音はやけに乾いていて、周囲の湿った空気と噛み合わない。反響もないのに、どこか遅れて追いかけてくるように聞こえた。
拝殿の前に立つ。古びた木の扉は閉ざされ、表面は深くひび割れている。溝の奥に溜まった影は黒く濃く、覗き込めば吸い込まれそうだった。扉の隙間からは何も聞こえないのに、内側に“何かがいる”気配だけが濃く漂っている。
そのとき、風が止まる。
草の擦れる音も、消える。
音が途切れるというより、削り取られたように消えた。
「……ここだ」
修司の声だけが、異様にはっきりと残る。
「……何がだよ」
健太の喉は乾き、言葉は擦れるように出た。
「始まり」
短い一言が、重く落ちる。周囲の空気がわずかに沈み、足元が不安定になるような感覚が広がる。
ここで、自分たちは——。
「……四人で」
修司の声が続く。
健太の呼吸が止まる。
「最初から、四人だったんだよ」
即座に否定が出る。
「違う。三人だ」
だが声は固く、どこか空虚に響く。
「俺と、美咲と、お前で——」
言葉が途切れる。もう一人の名前が出てこない。記憶の中に確かにあるはずなのに、そこだけが黒く塗り潰されている。
「……ほらな」
修司が言う。
「思い出せないだろ」
その瞬間、冷たい風が一筋だけ通り抜ける。境内の奥、闇がわずかに揺れた。
視線が引き寄せられる。奥に、小さな石の祠があった。崩れかけ、半分ほど土に埋もれている。祠の周囲だけ、空気がわずかに歪んで見えた。
近づく。足元の砂利が、やけに重い音を立てる。砂利の下で、何かがゆっくりと動いたような気がした。
石の表面には無数の刻みがある。苔の隙間から覗くその線は不規則で、しかしどこか規則性を持っていた。指でなぞると、ざらりとした感触が皮膚に引っかかる。
読めない。だが、意味だけが理解できる。
数だ。
正の字のような刻みが、何層にも重なっている。古いものの上に新しい線が刻まれ、削れ、また刻まれている。線の深さも方向も違う。何年も、何十年も前から刻まれ続けてきた痕跡。
増えている。
何度も。
何度も。
この場所で。
「……繰り返してる」
修司が言う。
「鬼ごっこをやるたびに増えてる」
健太の喉がわずかに震える。
「……じゃあ、最初は……」
「三人だ。そこに一つ混ざって、四人になった」
沈黙が落ちる。空気がさらに冷え、指先の感覚が鈍くなる。
「それが——“お前らが最初に増やしたやつ”だ」
その言葉と同時に、頭の奥で何かが繋がる。笑い声。走る足音。振り返ったときの影。そして——誰か。顔は思い出せないのに、そこにいたという確信だけが残る。
「……じゃあ、そいつが……今も……」
言葉は最後まで形にならない。だが理解だけは進む。最初から、ずっと混ざっていた。
「最初からいたやつは消えない。増えたものは増え続ける」
修司の声は静かで、感情が削ぎ落とされていた。
終わらない。その事実が、重く沈む。
そのとき——背後で音が鳴る。
コツ、と乾いた足音。
二人は同時に振り返る。
暗闇の中に、人影が立っていた。他の影よりも輪郭が濃く、月明かりをわずかに反射している。まるで、そこだけ現実の密度が違うように見えた。
一歩、前に出る。地面を踏む音がやけに鮮明に響く。
距離が、詰まる。
健太の口が勝手に動く。
「……お前、誰だ」
影は一瞬だけ揺れ、次の瞬間——口元だけが、ゆっくりと歪んだ。
笑っていた。
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