最初からいた 第15話
風が、止んだ。さっきまで耳の奥で擦れていた音が、すっと消える。代わりに、何もない静寂が広がる。
——静かすぎる。
自分の呼吸だけが、やけに大きく聞こえる。吸う。吐く。その繰り返しがぎこちない。まるで“呼吸の仕方を忘れかけている”みたいだった。
空は低いまま。灰色の雲が動かず、空気に貼り付いているように見える。風がないせいで、景色が止まっている。田んぼの水も揺れない。鏡のように平らで——そこに映るものは、見ない。誰も視線を落とさない。
「……今、わかったよな」
修司が言う。声は抑えているが、わずかに震えている。
「“認識したら増える”」
言葉にした瞬間、空気がわずかに重くなる気がした。誰も返事をしない。わかっているから。言葉にすること自体が、もう危険だと。
健太が唇を噛む。血の味がした気がする。でも、それを確かめる余裕はない。思考が止まらない。止めなければいけないのに。考えるほど、増える。理解している。でも——考えないなんて、できるのか?
「……考えるな」
修司が言う。短く。命令のように。
「意識するな。数えるな。見分けようとするな」
一つ一つの言葉が重く落ちる。正しい。たぶん正しい。でも、それは——人間にできることなのか?
美咲が小さく首を振る。涙が頬を伝う。
「……無理だよ」
声がかすれる。
「考えないなんて……」
その言葉で、心の奥にあったものが形になる。
——無理だ。
わかっている。止められない。思考は勝手に動く。
沈黙。でも、それは“静けさ”じゃない。押し込めた思考が内側で暴れている。頭の中がうるさい。
考えるな。考えるな。
そう思うほど、余計に意識する。
——今、何人だ?
その問いが浮かぶ。慌てて打ち消す。
だめだ。それは——
——コツ。
足音。すぐ近く。息が止まる。
考えた瞬間に、これだ。わかりやすすぎる。逃げ場がない。
「……ほら」
健太が震える声で言う。
「今の……」
言いかけて止まる。言葉にするのが怖い。でも、全員が同じことを思っている。
——“反応した”。
空気が濃くなる。さっきよりも、明らかに。肌にまとわりつく。重い。息を吸うたびに喉に何かが引っかかる。
「……目を閉じろ」
修司が言う。
「視覚もトリガーになる」
すぐに全員が従う。目を閉じる。暗闇。何も見えない。
でも。それでも——“いる”。近くに。
気配が、はっきりする。見えない分、余計に濃くなる。
音が増える。
——コツ。
——ザッ。
——コツ。
距離がわかる。近い。円を描くように、囲んでいる。
数は——考えるな。考えるな。
心臓が早くなる。ドクドクとうるさい。この音すら呼び寄せている気がする。すべてがトリガーに思える。思考。視線。呼吸。存在そのもの。
「……じっとしてろ」
修司の声。低く、抑えられている。
「何もするな」
それが唯一の対策。でも。それは——ただ、待つだけ。終わりを。
時間が伸びる。一秒が長い。やけに長い。でも、実際にどれくらい経ったのかはわからない。感覚が曖昧になる。
その中で、ふと。誰かの呼吸が乱れる。浅く、速く。抑えきれていない。
「……は、っ……は……」
美咲だ。わかる。我慢している。でも、限界が近い。
「……落ち着け」
健太が小さく言う。でも、その声にも焦りがある。自分もギリギリだ。
考えるな。考えるな。
でも。頭の中に浮かぶ。どうしても。
——今、何人だ?
その瞬間。
——ザッ。
すぐ目の前。距離が、一気に縮まる。
息が止まる。
わかる。
完全に、詰められている。
そして、誰かが——目を、開けた。
——光。
閉じていたはずの視界に、灰色が差し込む。誰かが目を開けた。その瞬間、空気が変わる。
“何か”が、一斉に反応する。
「……っ、やめ——」
修司の声。
止めるより早く、それは起きた。
——いた。
目の前に。人影。
輪郭が曖昧で、でも確実に“人の形”。距離、ほぼゼロ。息がかかる。冷たい。でも、どこか湿っている。
美咲が息を飲む。開いたままの目。完全に固まっている。見てしまった。はっきりと。“存在”を。
その瞬間。
——ザザザッ。
音が爆発する。周囲すべてから。一斉に。足音。擦れる音。何かが動く気配。数えきれない。いや、数えたくない。
「……走れ!!」
修司の叫び。もう抑えない。命令。
全員が目を開ける。もう関係ない。閉じていても意味がない。すでに認識してしまった。
走る。泥を蹴る。足が重い。でも止まれない。止まった瞬間、終わる。
背後で音が追ってくる。無数。重なる。増える。どんどん。
視界の端で、何かが動く。横。前。後ろ。全部にいる。距離がない。囲まれている。
「……くそっ!」
健太が叫ぶ。声が割れる。恐怖が剥き出しになる。
そのとき。
美咲が足を取られる。泥に滑る。体が傾く。
「——っ!」
倒れる。手が地面につく。ぬめり。冷たい。
「……やば——」
言い終わる前に。
影が、伸びる。地面から。黒が、這い上がる。
「……いやぁっ!!」
悲鳴。鋭い。でも、すぐに歪む。
健太が振り返る。手を伸ばす。
「美咲!!」
届く距離。
でも。
——ズルッ。
影が腕に絡む。飲み込む。ゆっくり。でも確実に。
「……離せ!!」
健太が掴む。引く。でも重い。引き剥がせない。
美咲の顔が歪む。涙と泥でぐちゃぐちゃになる。でも、その目は——どこか諦めている。理解してしまった目。
「……だめ……」
小さく言う。
「もう……」
その瞬間、健太の手が止まる。迷い。一瞬。
——ズルッ。
さらに沈む。肩まで。首まで。
「……っ!!」
健太の喉が詰まる。声にならない。
そして、完全に沈む。
一瞬だけ。音が消える。
でも、すぐに。
——コツ。
足音が戻る。さっきよりも。さらに近く。
健太が動かない。その場に立ち尽くす。手が震えている。何も掴めていない。空だけ。
「……くそ……」
低く漏れる。後悔。怒り。無力。全部混ざる。
修司が強く言う。
「立て! ここにいたら終わる!」
その声で、ようやく体が動く。遅い。でも、動くしかない。
二人で走る。泥を蹴る。息が切れる。でも止まらない。
背後で音が増える。そして、その中に混ざる。
「……だめ……」
さっきの声。美咲の声。
健太の顔が歪む。振り返りそうになる。でも、できない。振り返ったら——
「……前だけ見ろ!!」
修司の叫び。必死。初めての、余裕のない声。
ただ前へ走る。風が強くなる。冷たい。でもその中に、いくつもの声が混ざる。増えている。止まらない。
そしてふと、健太の頭に浮かぶ。
——今、何人残ってる?
その瞬間。音が、増えた。
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