最初からいた 第14話
風が通り過ぎる。低く、長く、擦れるような音を残して。それはさっきまでの風と違い、どこか空洞を通り抜けてくるような響きだった。空気が削られ、細い管の中を無理やり押し出されているような、不自然な音。
地面は湿っている。踏みしめるたびに、ぬ、とした感触が靴底に絡みつく。乾いていたはずの土は黒く変色し、ところどころに薄い水膜が張っていた。その水膜は風に揺れず、ただ静かに、鈍い光を吸い込んでいる。
そこに映るのは——影。揺れている。数は、見ない。もう、誰も見ようとしない。
「……っは……」
健太が息を吐く。乱れている。呼吸がうまく整わない。胸を押さえ、何度も空気を吸い込む。でも足りない。吸っても吸っても、肺の奥まで届かない。湿った空気が喉に張り付き、息が重い。
「……今の……なんだよ……」
声が掠れる。現実を言葉にできないまま、ただ漏れる。
美咲は、その場から動けなかった。目は開いたまま。でも焦点が合っていない。さっきの光景が焼き付いて離れない。
——沈んでいく体。
音もなく、黒に飲まれていく姿。
叫びも途中で途切れた。
まるで最初から存在していなかったみたいに。
「……うそ……」
かすかな声。否定の言葉なのに、力がない。もう、否定しきれない。
修司は動かない。その場に立ったまま、地面を見ている。さっきまで“あったはずの場所”。そこには、何もない。跡すら残っていない。泥のへこみも。足跡も。全部、消えている。
——完全に。“最初からいなかった”みたいに。
「……消えた……」
ぽつりと落ちる声。冷静なはずの声が、わずかに揺れる。
沈黙。風だけが通る。その風は冷たいはずなのに、どこか生ぬるい。皮膚の上を撫でるたびに、不快な粘り気を残していく。空気が重い。呼吸のたびに、何かを吸い込んでいる気がする。
田んぼの向こうの景色は、灰色の膜の奥に沈んでいるようで、遠近感が狂って見えた。
「……なあ」
健太が言う。ゆっくりと視線を上げる。
「……減ってないよな」
その一言で、全員の動きが止まる。理解している。でも、確認したくない。確認した瞬間——現実になる。
それでも、視線が落ちる。地面へ。影へ。
——ある。
数は変わっていない。いや。むしろ——増えているように見える。
「……なんでだよ……」
健太の声が崩れる。怒りと恐怖が混ざる。
「消しただろ……!」
「……違う」
修司が言う。ゆっくりと。噛み締めるように。
「“消えてない”」
その言葉に、空気が凍る。
「……どういうことだよ」
健太が睨む。でも、その目にも迷いがある。答えが怖い。
「……あれは」
修司は視線を上げない。
「“排除”じゃない。“取り込まれた”だけだ」
静かな声。でも、その意味は重い。
美咲の肩がびくりと震える。思い出してしまう。沈んでいく瞬間。あれは“消えた”んじゃない。
——“向こう側に行った”。
「……じゃあ」
美咲の声が細くなる。
「今も……いるの……?」
その問いに、誰もすぐには答えない。でも、答えは空気の中にある。
——コツ。
足音。すぐ近く。三人が一斉に顔を上げる。音の方向を見る。何もない。でも、“いる”。さっきよりも、はっきりと。距離が近い。
「……増えてる」
健太が呟く。今度は否定じゃない。確信。認めてしまった声。
そのとき、ふと風の流れが変わる。さっきまで前から吹いていた風が、横に流れる。その中に——声が混ざる。
「……それじゃ、だめだ」
三人の体が凍る。今の声は。間違いなく。
——さっき消えたはずの声。
「……っ!?」
美咲が振り向く。涙がこぼれる。
「今の……!」
「……聞いた」
修司の声が低くなる。でも、その中に明確な動揺がある。
風がまた吹く。今度は強く。周囲の空気がざわつく。田んぼの水面が揺れ、影が歪む。そのざわめきの中に、いくつもの“気配”が混ざる。増えている。確実に。
そして。その中に。“混ざっている”。さっきまで仲間だったはずの気配が。
健太の喉が鳴る。理解してしまう。最悪の形で。
「……あいつも……」
一拍。言葉が詰まる。
「……あっち側かよ」
沈黙。否定できない。したくても、できない。
修司がゆっくりと顔を上げる。その目はさっきまでと違う。冷静さの奥に焦りがある。そして——計算。まだ考えている。まだ、解こうとしている。
「……ルールが違う」
低く呟く。
「“減らすゲーム”じゃない」
一拍。風が止まる。
「“増やされるゲーム”だ」
その言葉が落ちた瞬間、全員の中で何かが崩れる。希望。前提。出口。全部。
美咲の視界が揺れる。立っていられない。足元が崩れる。しゃがみ込む。泥が手に付く。冷たい。でも、その冷たさが現実を教える。
「……じゃあ、どうすればいいの……」
声がほとんど消えそうになる。答えを求めている。でも、誰も持っていない。
風がまた吹く。その中に。声が混ざる。今度は複数。はっきりとは聞き取れない。でも、確実に。
“呼んでいる”。
修司の目が細くなる。考える。必死に。そして——ゆっくりと言う。
「……認識だ」
「……え?」
健太が聞き返す。
「“認識されるほど、増える”」
その仮説が静かに落ちる。
「見つける。数える。意識する。全部、トリガーだ」
風が止む。音が消える。その静寂の中で、その言葉だけが残る。
——じゃあ。どうすればいい?
考えた瞬間、気づく。それすら、危険だと。
誰も動かない。誰も考えないようにする。でも、それは無理だ。人は考える。意識する。それを止めることなんて、できない。
じわじわと。何かが近づく。見えない。でも確実に。空気が詰まっていく。距離がなくなっていく。
その中で。ふと。誰かが思う。
——今、何人だ?
その瞬間。
風が、吹いた。
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