最初からいた 第13話
風が止まない。さっきまで冷たかったそれは、今はどこか湿っていて、肌にまとわりつくように重く、息をするたびに肺の奥まで沈んでくる。空は低く、雲がすぐ頭の上に垂れ込めているようだった。光は鈍く、世界全体が灰色にくすみ、遠くの田んぼは色を失い、乾いていたはずの土がいつの間にか湿り気を帯びて黒ずんでいる。風が吹くたび、田んぼの表面に残った水の膜がわずかに揺れ、光を吸い込むように鈍く光る。
——足元が、ぬかるむ。
じわりと靴の裏に泥がまとわりつく。泥は冷たく、まるで生き物のように吸い付いてくる。動くたびに重い。逃げることすら拒まれているみたいだった。周囲の空気は湿り、土と草の匂いが濃く、どこか鉄のような生臭さが混じっている。
「……決めるしかない」
修司の声が低く響く。風に流されず、その場に落ちるような声。重い。拒絶できない重さ。空気の中に沈んでいくような響き。
「このままじゃ、全員終わる」
反論は出ない。出せない。正しいから。正しすぎるから。
視線が交差する。ゆっくりと。探るように。疑いながら。健太の目は鋭いが、その奥に迷いがある。美咲は明らかに怯えていて、視線が落ち着かない。風に揺れる髪が頬に張り付き、涙の跡が光っている。そして修司。冷静だ。冷静すぎる。感情を切り離している。——“選ぶ側”の目だ。
周囲の景色は静まり返り、遠くの電柱が風に軋む音だけが細く響く。田んぼの向こうの山影は黒く沈み、輪郭が曖昧になっている。
そして視線が、こちらに集まる。逃げ場がない。空気が重く沈む。風の音が遠くなる。代わりに、自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえる。湿った空気が喉に張り付き、息が重い。
「……俺じゃない」
気づけば口が動いていた。乾いた声。自分でも驚くほど必死な響き。
「最初からいた。ちゃんと、覚えてる」
——嘘だ。
その言葉が胸の奥で反響する。覚えていない。決定的な何かが抜けている。でも、言わないと。言わなければ——。
「……証明できるか?」
修司の声。静かで、逃げ場がない。言葉が喉で止まる。証明。そんなもの——あるわけがない。
沈黙。風だけが通り過ぎる。でもその風も濁っている。湿った土の匂い。鉄のような、わずかな生臭さ。嫌な予感がじわじわと広がる。田んぼの水面が揺れ、空の灰色を歪ませる。
「……もういいだろ」
健太が言う。低く、決めたような声。
「これ以上、迷っても無駄だ」
その一言で流れが決まる。止められない。止まらない。
「……やめてよ」
美咲の声が震える。涙が滲んでいる。風に濡れた頬が赤くなっている。
「間違ってたら、どうするの……」
「間違ってても」
修司が言う。ためらいなく。
「やらないよりマシだ」
その冷たさに空気が凍る。田んぼの水面が一瞬だけ静止したように見えた。
足元の泥がじわりと沈む。一歩、誰かが動く。音が重い。逃げ場がさらに狭まる。泥の中で小さな気泡が弾ける音がした。
健太がこちらに近づいてくる。ゆっくりと。ためらいながら。でも止まらない。目が逸れない。決めている。選んでいる。——こちらを。
「……違う」
声が出る。震えている。
「俺じゃない」
一歩、下がる。泥が沈む。足が重い。逃げられない。背後の田んぼから、風に揺れる草の音がかすかに聞こえる。
「悪いな」
健太が言う。苦しそうに。でも、その手は伸びる。こちらへ。届く距離。
その瞬間。
——ザッ。
背後で音。全員が反射的に振り向く。
何もない。道が続いているだけ。でも空気が歪んでいる。見えない何かがそこに“いる”。濃くなっている。さっきまでよりも、はっきりと。田んぼの水面が波紋もないのに揺れた気がした。
「……来てる」
美咲が呟く。声がかすれている。
「また……増えてる……」
その言葉で、全員の意識が一瞬だけ逸れる。
——その隙。
「……今だ」
修司の声。鋭い。迷いがない。
その瞬間、健太が腕を掴む。強い力。逃げられない。
「やめろ!」
叫ぶ。でも届かない。もう止まらない。
押される。体が後ろへ傾く。足元の泥が滑る。視界が揺れる。空が近づく。灰色が広がる。田んぼの匂いが強くなる。
そのとき。
——違和感。
背中に、何かが触れた。冷たい。でも地面じゃない。柔らかい。ぬめりがある。
「……え?」
次の瞬間。
——ズルッ。
体が、“沈む”。
地面じゃない。影だ。黒い、濃い影。そこに体が沈み込んでいく。音が消える。世界が遠ざかる。田んぼの景色が歪んでいく。
「……っ!?」
健太が手を離す。驚愕の声。
「なんだこれ!?」
「影が……!」
美咲の悲鳴。修司の顔が初めて崩れる。理解が追いついていない。
沈む。ゆっくりと。でも確実に。足から。腰。胸。呼吸が浅くなる。空気が遠い。風の音が薄れていく。
でも。意識ははっきりしている。不思議なほどに。冷静に。見えている。
上を見る。三人の顔。歪んでいる。恐怖。後悔。そして——疑い。まだ、消えていない。
そのとき、気づく。三人の背後。影が。増えている。静かに。音もなく。ひとつ。ふたつ。みっつ。田んぼの水面に映る影も揺れている。
“排除”したのに。減っていない。むしろ——増えている。
理解する。遅すぎる理解。でも、確信。
——違う。やり方が、間違ってる。
最後に声が出る。かすれている。でも、届く。
「……それじゃ、だめだ」
三人がこちらを見る。必死に。何かを求めるように。
「……増えるだけだ」
その瞬間、視界が黒に沈む。音が消える。感覚が途切れる。
——完全に、飲み込まれた。
風だけが残る。冷たい風が、何もない空間を通り抜ける。地面には影がある。数は——もう、わからない。
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