最初からいた 第10話
——遅い。その一言が、やけに長く耳に残った。風が止まり、さっきまで乾いた土をさらっていた空気がぴたりと途切れる。代わりに、耳の奥にこもるような静けさが広がり、世界の音が一枚膜の向こう側に押しやられたようだった。
そして。
——コツ。
すぐ後ろ。今度は、はっきりとした足音だった。砂利ではない。乾いた土を踏みしめるような、重く鈍い音。胸の奥がひゅっと縮む。
「……動くな」
修司が、ほとんど息だけで言う。全員の体が固まり、呼吸すら浅くなる。視線だけがゆっくりと動く。右。左。背後。何もない。何も——見えない。
でも。
“空間が詰まっている”。
そんな感覚。目に見えない何かが、すぐ近くに立っている。距離が近い。近すぎる。皮膚の表面がざわざわと逆立つ。
「……いる」
美咲の声が震える。泣きそうな声。喉の奥で何かが詰まっているような音。
「……すぐ、そこに」
——コツ。今度は横。肩のすぐ近く。息が詰まる。冷たい。何かが空気を押しのけている。目には見えないのに、確かに“存在”がある。呼吸のリズムが狂う。
「……数えるな」
修司が言う。さっきよりも低く、はっきりと。
「今は絶対に」
全員が無言で頷く。もう理解している。——数えるほど、近づく。
♢♢♢
時間の感覚が曖昧になる。数秒なのか、数分なのかもわからない。ただ、音だけが断続的に響く。
——コツ。
——ザッ。
——コツ。
複数。確実に。円を描くように、周囲を回っている。足音の位置が、少しずつ変わる。近づいたり、離れたり。呼吸が乱れ、胸が痛い。
逃げ道を探すように視線を動かす。道は一本。真っ直ぐ。でも——その“先”にも、何かがいる気がした。空気が濁っている。視界の端が揺れる。
「……どうする」
健太がかすれた声で言う。
「このまま……待つのか?」
「動いたら、反応する可能性がある」
修司が答える。
「でも」
少しだけ間が空く。
「ここにいても、囲まれる」
どちらにしても詰み。その現実がじわじわと迫ってくる。胸の奥が冷たくなる。
♢♢♢
「……別の方法」
美咲が言う。震えながらも、必死に言葉を絞り出す。
「数えないで、確認する方法」
その一言で、全員の意識がそちらに向く。心臓の音が耳の奥で跳ねる。
「……例えば?」
健太が聞く。
「その……“同時に動く”とか」
「……は?」
「ほら、四人で同じ動きをしたら、ズレるやつがいるかもしれない」
確かに。“存在しているなら”、同じ動きができるはず。できなければ——。
「……やってみる価値はある」
修司が頷く。
「カウントはしない。合図で動く」
「……どうやって合図すんだよ」
「俺が手を上げる」
修司はゆっくりと腕を上げる。ぎこちない動き。その周囲の空気がわずかに歪んだ気がした。
「上げた瞬間に、全員、同時に右に一歩」
「……わかった」
健太が頷く。美咲も小さくうなずく。俺も。心臓の音がうるさい。耳の奥で鳴り続けている。
♢♢♢
静寂。風もない。音もない。——いや。ある。すぐ近くで。呼吸のような。気配のような。何かが。
「……いくぞ」
修司が言う。ゆっくりと腕が上がる。時間が引き延ばされる。長い。やけに長い。
そして——手が上がりきる。
その瞬間、全員が動いた。右へ、一歩。砂利が鳴る。ザッ、と音が重なる。
——一つ、多い。
確実に。音が、四つじゃない。五つ、重なった。
「……っ!」
全員が凍りつく。喉が固まり、声が出ない。でも、わかってしまう。——いる。同じ動きをした“何か”が。
「……もう一回」
修司が言う。声が震えている。
「確認する」
腕が再び上がる。今度は少し速い。焦りが混じっている。
そして——合図。
全員が同時に動く。今度は左。ザッ。
——また、多い。
明らかに。重なり方が違う。五つではない。もっと。
「……五人以上いる」
健太が呟く。声が完全に震えている。
「増えてる……」
美咲の目に涙が浮かぶ。現実が壊れていく。ゆっくりと。確実に。
♢♢♢
そのとき。
——スッ。
すぐ横で、空気が動いた。顔のすぐ近く。息がかかる距離。見えない何かが、“覗き込んでいる”。
「……っ!」
思わず一歩下がる。
その瞬間。
——コツコツコツコツ。
音が一斉に動く。囲みを狭めるように。逃げ道を塞ぐように。
「……まずい!」
修司が叫ぶ。
「もう持たない! 走るぞ!」
その言葉を待たずに体が動く。前へ。とにかく前へ。地面を蹴る。息が乱れる。視界が揺れる。
背後で——無数の足音が追ってくる。数えられない。数えたくない。でも、確実に増えている。
♢♢♢
しばらく走ったところで、ふと気づく。音が——減っている。いや、完全に消えたわけじゃない。でも、遠ざかっている。
「……はあ……っ」
足を止める。全員がその場に崩れるように立ち止まる。息が荒い。喉が焼ける。
「……今の……やばすぎだろ……」
健太が震える声で言う。
「……ああ」
修司も頷く。顔が青ざめている。
「はっきりしたな」
「……何が」
美咲が聞く。
「“数”じゃない。“認識”に反応してる」
その言葉が静かに落ちる。
「数えなくても、意識して“確認”すると寄ってくる」
つまり——逃げ場がない。考えるだけで、近づく。
♢♢♢
沈黙。風がようやく戻る。でも、その風は冷たく、どこか湿っていた。遠くの景色が少し歪んで見える。熱のせいか。それとも——。
「……ねえ」
美咲が言う。小さく。
「今」
ゆっくりとこちらを見る。
「私たち……何人?」
誰も答えない。答えられない。数えた瞬間、また——。
♢♢♢
そのとき。ふと、違和感に気づく。視界の端。影。自分の影のすぐ隣。もう一つ、ある。同じ形。でも、微妙にズレている。
「……あ」
声が漏れる。
「どうしたの?」
美咲が聞く。
答えられない。ただ、地面を指さす。
全員の視線が落ちる。そこに——影が、五つあった。
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